春はどこか

 ここ最近。書くことがないこともなかったこの頃。
 たとえばいきなり雑誌「10+1」が終刊した。たしかに個人的に良い「購読者」ではなかったが、毎回かなりじっくり目を通したり、とくに中国での作品が最近各誌の表紙にもなっている磯崎新のインタビューは、そのままずっと90年代まで回顧してくれるのではないかと期待しつつ、その資料にもとづいた詳細な質疑と応答を楽しみにしていたので、とても残念におもう。ただ「新潮」でのエッセイはまだ続いているようで、同誌の他の部分とそれだけで拮抗するような内容と思いつつ、次号を待つ。
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 ちなみに、もうかなり前になる磯崎新の展覧会に即した「unbuilt/反建築史」という本の巻頭の文章も、読み直してもかなり面白い。ここでは、以前に書かれた「都市破壊業KK」の続きとして、新の分裂した主体、SINとARATAが語り合うのだが、かつての文章ののち姿を消したSは、どうやら可能世界における「新」であったらしいことがわかる。
 かなり錯綜する文章を正確によめているか、自信はないのだが、面白いのは、全体を通じて「ありえたかもしれないもの」を通じて歴史を展開しようとしており、やや過激な箇所では、その「ありえたかもしれない」もののなかに歴史がある、と言われているらしいことだ。その一方で、現実にはAが存在しており、まさしく歴史を生きてきた。だが、ありえたかもしれないものは、それがありえなかったゆえに、理想型を指し示したり、さまざまな解釈の余地を残したままであったり、といった刺激的な要因たりえる。さらに、ありえなかったゆえに、ありえたかもしれない歴史を眠らせたままでいる。そのあった/ありえたという両方に歴史があって、それを一挙に掘り起こすことで、なにかが生まれるのではないか、というより、その両方を見ることこそが刺激を引き起こすことではないか。だから最後に文章はその「間」を考えろ、と畳みかける。間=ギャップ、あった/ありえたという両方に足を置くこと。それは単に並行している可能世界を夢想するだけではなく、現在を、あった/ありえたの両者で引き裂こうとすることのようにおもわれる。
 それは、おそらく、過去に思いを馳せ、ノスタルジックに回顧することではない。むしろ、ありえたかもしれない過去の系列によって現在を不断に突き上げようとする、緊張した現場に身を置くという問題を提起しているように思われる。
 2001年9月以前に書かれたこのテキストが、いまどのように読まれるかは良く分からないが、これは今なおかなり色々な読み方の出来るものだとおもう。

 前からちょこちょことライブが云々と書いているが、このところ懐が寒いためにまったく足を運べていない。ネットだけを見るとあまり感想が見あたらないようだけど、大友良英「invisible songs」がCDではかなり良かった(とくに「ラジオのように」と「自殺について」は、こういうのがずっと聴きたかった、という胸を掴まれるようなかんじで、暗くてイライラしていて。あとパーカッションが凄い。同じ曲を取り上げたハイナー・ゲッペルスの「アイスラーマテリアル」と聴き比べたりもして、どちらも良いなあとか。ご本人がこの拙い文章を読まれているか分からないが、世界中で売れて然るべき傑作と思う)ので、ライブに行きたかったが都合により外してしまった。
 と思ったら、次はONJOとfutarri fesというのがあって、しかし寒さと相談しつつある。とくにそのフェスのリストを見ていたら、「core anode ソロ」とさらりと書いてあり、あまりに想定外の発想に驚いた。
 しかしONJOも新しいカルテットもかなり面白そうで、しかしフェスティバルは知らない人の演奏を知らないまま聴くというのも大事であろうし、かなり迷う今日。