10日前9日後

*10日前
 10日前、思い切り綴りを間違っていたフタリ・フェスティバル(Ftarri festival)に行ってみた。土曜は都合があり、日曜のみ。おそらくうらぶれた人々がゆっくりと集まって、のんびりできるのではと思って行ってみたのだが、その予想をおおきく裏切って多くの人が足を運んでいる。最初空いていたので後ろの席でゆっくりしようと思っていたら、かなり詰め気味の満席。しかも全体が若い。変な同好会みたいではなく、興味と?と集中力が熱くけだるく混ざっている雰囲気だった。
 いずれにしても、これまでいくつかの雑誌とかで集めていたはずの情報は、目の前で次々に進むその立て続けの演奏を見るなか、見事に崩壊した。こうして10日後に感想を書く、というのは、そうしたことから来ている。実際、あとになればなるほど、色々な意味で面白かった。率直にいって、ある種のまとまりがあるのではと思っていたのだが、まったくまとまりはなかった。たしかに「静かに耳をそばだてて聴く」というような雰囲気はあったが、その内容はそれぞれで大きく異なり、またいってみれば「静かな音を聞くのが気持ち良い」というような分かり易い快感からは、どれも遠く隔たったものであったことは間違いないように思う。実際、improvised musicという全体ながらも、かならずしも即興ばかりではなかったし、といってもお決まりのあの曲を演奏、というのもなかった。即興について考えたり演奏したりしている人たちの演奏があって、それがかくも様々であることが、実はあとからふりかえって驚き。それらがすべて「最先端」であるかどうかは分からないが、まだ言葉にはできぬ未定形の試行錯誤がたくさんあるようだった。こうした試みはぜひまた続けて欲しい。
 正直、全部がわかったわけではないけれど、杉本拓と佳村萌の演奏が極端な短さと、短いというだけではあまりに言葉足らずな内容に強い印象。ヌーは生で見ると1曲目から何が何やらわからなくて凄い。秋山・カワサキ・山内も前後感覚がなくなってしまうような、でも引き締まった即興が印象的。中村としまるのミニマルな風情。など、すべて印象論だが続けるときりがなく、一方で、なんとなく演劇性というか演舞性というか、予想以上に目で演奏を見る部分をかんじるものもいくつかあった。これなら、初日も行けば良かったとあとで思う。

*9日後
 さらに21日の大友良英カルテット/ONJOに行ってみた。ONJOのライヴも久しぶりで、ぐるりと客を囲む編成も初めて。さらに、あちこちを向いたスピーカーがいくつもあって、ちょっとした迷宮のような様相。後から思えば、そのぐるりと囲まれた中に座れば良かったかもしれない。なんとなく体調もあって、椅子に座ったが、明らかに座席によって、聞こえる音楽自体が変わるもので、その囲われたなかにいるのが理想的だったのかもしない。
 実際、前半のカルテットで、とにかく音が奏者とはちがう場所から聞こえたりして、目で見えることと、聞こえる音の位置関係がまったく違うので、なにか現実が二重化しているような感覚というか、とりあえず遠近感が崩壊する。そのためか、途中まで現実感覚から遊離してしまい、ちょっとぼけっとしたままだった。途中からすこし慣れると、うまく表現できないが、あらためて硬質的なというか、金属的とか電子的とか、乾いた打撃とか、湿り気を含まない音が鋭角的に入り乱れ、持続音だけでなく、全員がそれぞれ複数の速度をもっていて、それらが重なったり並行したり被さったりして全体が変化したり。たえずドラムが入ってくる緊張感が重要か、「起承転結」のような物語性とはちがったところにあるような硬質的で複雑な進行が面白い。
 後半はオーケストラで1曲、これもほとんど抽象的ながら、なんとなく3曲くらいが連なっていたようにおもえる。前から書いているように僕は素人なのでなんとも判別がつかないが、なんというか物凄くなっていて、とりあえず、本当に、人数が増えても音楽が大きくならない。当たり前のようにあの人数で各人の音が聞こえてきて、破綻のような部分をほぼ感じない。前半のセットは各人の速度や音色の変化と交錯が際立ったけれど、後半はむしろ全体がひとつの雲のようなものをなし、その大きさは変わらぬままで、色彩や部分が移ろっていくというような印象だろうか。あえていうなら「カソード」を生でより複雑精緻に展開しているようで、CDより遙かに遠くへ行ってしまっていた。
 実はもっとも驚いたのはアンコール。短く歌を一曲で、ここではむしろ音楽が小さくなっているようだった。とてもロマンチックな曲を、ただし、ロマンチックに歌い上げるのではない、みんなで小さな何かを支えているような演奏で、なにか無力さとか強さとか弱さとか、そんなことについて後で色々考えさせられた。センチメンタリズムとは無縁な、なんというか、ギリギリで存在している希薄さと強さそのものだけで成立していたように思って、僕ははじめてカヒミ・カリィがなんでONJOにいるのか、ようやく分かったような気がした。それは技術的な演奏力や、適切な音のコントロールで成り立っているのは十分承知で、ひょっとしたら観客への単なるサービスだったのかもしれないのだが、あるいは明瞭にメロディーを奏でるのが(ほぼ)カヒミ・カリィだけ、というあの日のメンバー構成のためなのかもしれないのだが、いずれにしても、さっきから大きい小さいとか強い弱いと書いているけれど、小ささや弱さの表現はたぶん決して容易ではないようにおもっていて、そしてその短いアンコールで、無力で小さくて弱い、けれどそこに(抗って)ある、というものの表現を聴いたような気がして、なにかやられたと思ったのだった。僕の狭い知識では比較しようもないけど、なんとなくベイリーの「バラッズ」は、こういうものだったのかもしれないと勝手に思ったりする。あのCDも沢山曲が入っていたけど、別に特別なことをしたわけではないのかもしれないけどああした演奏は機会があったら、ぜひまた聴いてみたい。