まだこれから

 どの程度話題になったのか分からないが、最近は大型連休というらしいGW、六本木の国立新美術館。「アーティスト・ファイル2008」。美術館が独自に選んだ作家の作品が展示されている。こうした企画は、企画そのものだけでなく評判とか評価とか、いろいろと難しいのだろうけれども、やはり一度に沢山の作品を一気に見ることができる、というのは面白い。あと個人的には知らない作家である、というのがとくに良い。
 全体としては、大きな作品が多い。というか、部屋を一杯につかうような作品が多く、また、それ自体は何も意味していないわけだが、大きく見れば同世代であり、またそれぞれが、共通した同時代的な問題関心を有しているようにおもった。たとえば、部屋いっぱいを使っていくつかのプロジェクターを配置し、それぞれが独自のスローモーションで風景を捉えた映像が流れる、という展示(さわ ひらき)は、どうしてもポリリズムポリフォニーといった複数の時間構造の並置、という問題をかんじる。実際に部屋の一番奥には時計の映像があって、ネタがわかるような仄めかしなのだろうか。あるいは、入ってすぐの作品群(竹村京)は、非常に巨大な画面が、しかし半透明な生地の重ね合わせによって構成されていて、そこに誰もいない室内風景と、刺繍による家具類の表象がある。とすると、これはキーファーやシュナーベルなどの意図をさらに展開しようとしたものなのかなとか、どれも勝手な理解だけれど、勝手ながらコンテクストを見つけてしまったりする(間違っていたらすいません)。
 そうしたなかで面白かったのは、エリナ・ブロテルスという女性の写真家の作品。どうも出発点はシンディ・シャーマンのような、過去の絵画作品や映像作品に自分が潜り込んだセルフ・ポートレートのようなのだけれど、途中からどんどん変わってくる。とくに、水平線を撮した作品は、最初ただ青ペンキをべったり塗った抽象画のようにおもわれるのだが、じっくり目を凝らすと、底辺まぎわに都市の夜景らしき灯りを発見し、その青が、実は空の色であったことに気づいて驚く。いっぽうで、自分が映り込んだ写真もあって、こちらは自分がそのとき持っていたプライベートな感情の痕跡として写真を撮る、という、プライバシーへの執着とともに、ほとんど同じ風景のなかに立ちつくしながら、しかし季節が異なり風景も変わった写真を並べることで、そうしたプライベートな感情(が焼き付いた特定の場所の記憶)が、実は色彩感によって大きく変化してみえるというような、感情/記憶/痕跡といったものと、目に見える映像との関係を追及している(ように理解した)ところが、とても面白かった。しかも、カタログを手にしてみるとやはり、作品それ自体の力強さが比較にならず、実際に目で見ないとわからない。こうした企画は、いろいろな評価があるかもしれないけれど続けて欲しい。

 どの程度話題になっているのかまったく分からないが、ここのところドゥルーズの著作が文庫化されていて、一通り読むことになる人は幾ばくかはいるように思う。本当なら原文を読むべきなのだろうけれどそこは日本語で、とズルをするついでに、いくつかの研究を本だけでなく雑誌論文でも探してみてみた(その意味では、データベースの是非といいつつ国会図書館雑誌記事索引はやはりとても便利)。
 そうするととても興味深かったのは、とても難解であったその哲学書を注釈するようなものを拝見できたことで、それを読むと、ドゥルーズにおける「出来事」や「可能性」というのがあくまでも哲学史上の文脈に沿って用いられたもので、パッと見とかなり異なる、たとえば可能性はかならずしも肯定的な概念ではないし、また出来事も、いわゆるイベントのようなもの、なにか盛り上がって訪れるようなものではない、ということを、ようやく理解する。
 感想なので飛躍してしまうと、それはたぶん、「いま・ここ」を即座に肯定するような思考ではない、ということなのだろうと受け取る。いま・ここを肯定すること、というのはなんとなく気分が盛り上がるようだが、当たり前ながらそれは単なる現状追認でしかなく、それをどうするかが問題になって、むしろそこから思考がスタートする、ということだと思われた。それはごく当然かもしれないのだけど、それを知って、やっとあの難解で複雑そうで入り組んでいそうな何冊もの本を少しずつ読んでみようという、スタート地点に近づいてみようかと思えたのだった。これは、ただしもうすこし時間をかける必要があるだろう。