予感

 どれほど話題になっているのかわからないが、すこし前に『例外状態』という邦訳書を読んだ。興味深い、という以上に、非常に政治的な問題を扱った書物。
 扱われているのもあくまで現代的な視点かもしれない。法的な権力が及ばなくなった状態、あるいは、法的な権利が(政府自らによって)認められなくさせられた事態・状況についての、歴史的法哲学的な考察がすすめられている。もちろん、合州国のすぐそばにある収容所についての言及もふくみ、やや遡れば絶滅をめぐる歴史上の事実についても触れられる。そこではいずれも、権利自体が政府によって剥奪された状況が問題となる。
 あるいは、主権とは例外状態において決断を下すことの出来る者である、という有名なテーゼも議論の俎上にのぼる。そこでは、バロック悲劇を扱った批評家の議論との並行関係がとりあげられ、彼による批判が浮き彫りにされることになる。それが白眉であることは間違いないだろう。
 必ずしもこの本は、しかし解決策を具体的に提示するわけではないし、例外状態の出現を扱っている一方で、その状況に置いて振るわれる暴力の形態について分析したものでは、そもそもない。ただ、それがどのような理屈で出現しうるか、その条件を分析していて、それは現在の多様な問題に切り込む視覚を提起していると思う。といっても、なかでも興味深いのはそのバロック悲劇論と主権をめぐる議論のあとにでてくる、ある種の理想郷的なイメージで、そこではカフカがとりあげられる。
 法が、それまでの議論をふまえたうえで、しかしある日、無用のものとなる日は来るのだろうかと問うているように思われるそのイメージは、目的を欠いた手段だけが浮遊しているような状況を描き出す。法が、執行されることも権力となることもなく、ただめくられる紙とだけになること、まるで遊戯のように、執行される目的を失って、ただ読み上げられるだけの単なる文字列になること、というような無用さに満ちたイメージがいきなり出てきて、確かにナイーブかも知れないがそれを差し出す著者アガンベンの論理の飛躍に、おもわず目眩を覚えた。

 どれほど話題になったのか知らないが、Brotzmann octet「machine gun complete sessions」。
 聴き直すと、実際これが40年前の録音とは思えないようなリアリティを保ち続けているようで、驚き再三。そして40年前が1968年であるということにも、なぜかあらためて驚く。
 書くほどもないけど、阿鼻叫喚のマシンガン攻撃、というのもさりながら、実はしっかり展開が構築されているのが面白くて、とくに表題曲とか、最後の方に行進曲のようなフレーズが出てくるのだけど、それもあっという間に消えてしまう。ブロック状に次々とテーマや演奏法などがあらかじめ決められていて、そのために1曲15分でも飽きないんだなと再確認。
 あと、なんといってもブーブーと、ノイズというか、単に音符に書かれた以上に色んな音が含まれていて、それが素直に盛り上がるし、たえずそういう攻撃的な音が噴き出す予感が横溢していて、その緊張感がすごい。
 というと、実は個人的に一番おそろしい瞬間は、むしろ音が小さくなる、あるいは無くなる瞬間にある。とりわけベースふたりがメインとなる箇所で、なぜか激しく弦を打ちつけ、擦り合っていた二人がある瞬間、いきなり静かになるところがあって、そこではむしろ、本来は噴き出していいだろう暴力的な音の不在をひしひしと感じ、えらく怖ろしい印象をもった。たしかにマシンガンのごとく阿鼻叫喚も暴力的だけど、それがあっても不思議でないときに沈黙を保つというのも、かなり暴力をかんじさせる。くりかえしだけど、だからこの曲は暴力が横溢しているというより、複雑な構成のなかで、暴力の予感が横溢しているというような印象だった(実際、マシンガンをおもわせる四管全員の阿鼻叫喚は冒頭だけで、でもその後もその緊迫感が続いているようにおもわれて、その構成がまた妙)。
 ほかにもその暴力性と無関係だったり関係したりするようなピアノとか、二人のドラムとか、ここまで古典になってしまうとおそらく聴くたびに印象も聞き所もちがうのだろうけれど、どれも印象論ながらそんな感想をあらためてもったりしたのだった。