缶コーヒーを買おうとしたら100円玉がなかったので、

 さておき。

 久しぶりに気の滅入る小説を読んだ。
 ジャン・ウ゛ォートランの「グルーム」(文春文庫)。ロマン・ノワールの一つで1980年に書かれたとされるが、予想以上に重く苦しく、かなり滅入る。
 主人公は、ハイムという12歳の少年。ホテルのボーイ(これが仏語でグルーム、というらしい)をしていて、あちこちを駆け回っている・・・というのは、実は主人公の妄想で、実際のハイムは25歳の足が悪い、中学の美術教師。ただし移民の子で、教師といっても生徒からの暴力に屈して授業を放棄しており(学級崩壊している)、移転してきたばかりの学校でも、初日から生徒の攻撃を受け、早々に帰宅してしまう。そして家に母と二人で暮らしながら、ひとり自室にこもり、12歳のボーイとしての妄想の生活をえんえんとノートに記しているというわけだ。
 これがわずか15ページもいかぬうちに明かされる設定で、そこから一気に物語は暗さを増していく。出てくる人物の大半はハイムと同様に妄想の中に生きており、色情狂をはじめ、暴力と狂気に冒された人物ばかりが、妄想と現実のあいだを跨ぎながら行動していく。
 その暴力と狂気といっても、いわれがないものではなく、しかし歴史によっている。ある人はナチの占領下で対独協力者として戦後私刑にあい、ある人はベトナム戦争での妄執をかかえ、そして階級、人種、民族の区分が権力構造をなす。そうした、個々人の性格だけに還元できない要因が、さらに狂気と暴力をましていき、そして殺人事件を契機に、わずかだけ表面化することになる。いや、しかしそれがどこまで表面化したかさえ分からない。妄想に生きていた非社会的な人間が一人死ぬだけ・・・それはあまりにどうでもいいようなことのように描かれもする。
 この小説で本当に滅入るのは、状況がなんとなく「占領」というようなものであることか。たとえばゲテモノであるような監禁の場合、監禁という状況からの「脱出」がありうるが、占領下では、そうしたことは不可能である。
 どこまでいっても占領下で、逃亡するなら、亡命しかない。だが、亡命など、それほど容易なものではない。そこから亡命できない人々の方が、圧倒的多数なのだ。
 そして、そこで権力との衝突は、決して「闘争」とか「戦場」とか「戦闘」といった様相を帯びることなく、占領している権力者による、いわば処罰のみだ。処罰もしくは処刑、合法的な、暴力の行使・・・この小説には、そうした雰囲気が濃厚で、ハイムの末路にいたるまで、ひたすらに救いがない。
 ただこの暗さは、一度経験しても良いように思う。決して爽快感などえられないが、こうした本が書かれたと言うこと自体が、かなりショックだ。