コーヒーを選ぶ、この毎日の選択の意味を考えて、

 ねむい。ねむいのは、しかし今日は風邪のせいで、というか風邪薬のせい。とにかくぼんやりして、なにをするにもすっきりしない。

 はやくも、前回に書いた「ベストワン」を変更しなければいけない予感。とはいえ、たとえば通常の店では販売していないような作品は入れようがないとおもうし、あるいはジョン・ゾーン大友良英の作品については、個人的に評価が定まらないのですべて番外(というか、どちらも通常の店では入手しにくいのは間違いないだろう・・・先日、たまたまお茶の水レコード屋フェラーリとの共演を購入しえたけれども、それはまた次に)。
 と言う意味で、前回のベストワンは、マイナーとメジャーの境界線にありながら、実験的なスタンスを続けていることがやはり凄い、という意味も含む。というか、音楽雑誌ではちゃんとあの作品は取り上げられたのだろうか・・・

 まあいいや。えーと、先日、やはりblacksmokerから出ていた
KILLA JHAZZ & KILLER BONG & GUITAR BONG / @LIVE2 "This is a KILASTRUMENTAL LIVE"
 をユニオンで購入。
 すばらしい・・・というか、文句がない。というか、こういうのは生まれて初めてに近いんだけど、ほぼ無条件に快感をくれる作品、というか、ひとり3役をこなしているこの人の作品はどれもそうした快楽にどっぷり浸ってしまう。これはほんとうに初めて。ある程度おなじ教養をもっているという世代の問題なのか?

 ほとんどカオスにちかい曲だけど、いくつも電子音が軋むように鳴る冒頭から、放電するようなギターのノイズに複雑なドラムのサンプリングによるリズム、ダブ処理、ときおり間違ってしまったように入るサックスの呻くような短い音、どれもが、愉しく、昏く、荒んでいて暴力的で投げやりだが、手の込んだ演奏。ひとり3役ということで、とても奥行きと言うかボリューム感のあるところもいい。前回挙げたのと同じく、こじんまりしないでやることの意義みたいのを感じる。よくは分かっていないが、さまざまな面で、今はこじんまりしないという方向性が大事な(ことの一つ)ような気がするからだ。


 あれこれとこういう音源をきいていると、まあ今さら専門家でもない僕が言う必要はないかもしれないけど、特徴として(?)は、とにかく質感のちがう音をいっしょくたに扱ってしまうところがあるようだ。たぶん、普通だったらノイズを除外したり、あるいはレコードのひび割れた音などは使わなかったりするのだろうけれど、オリーブオイルにしてもあるいはフライングロータスにしても、とにかく質感の異なるまったくちがう素材を組み合わせてリズムや曲をつくりあげてしまう。それが、たぶん僕としては新鮮で気持ちが良いところのような気がする。
 ちょっと高尚になればこれはスーパーフラットかもしれないとおもわなくもない。あのドラムの一音と、別のレコードのスネアとを組み合わせて、新しいリズムをつくり、そこに全然ちがう音源のピアノと、またサックスをループさせたり断片化したりして組み合わせる。どこかに上位があるわけではなく、音源と言う意味ではどれもバラバラなのが前提。
 ただ、ひところのスーパーフラットとちがうのは、フラットならハッピーなのではなくて、それを前提条件にした上で、なにが作れるかを模索しているようだ。ひょっとしたら、ぶっ壊れたような何かが生まれてくるかもしれない。そんな期待感もあって、とにかく愉楽にみちみちてる。

 こういうのを聴くと、もっともっと色んな方向性がありそうだ。たとえばジャズのリズムにノイズをのせるとか、フリージャズと現代音楽を共演させてみるとか(たぶんほとんど違和感はないだろう・・・)、自分で機械があればやってみたいとおもわなくもない・・・けど、手元には何もないのだった。


 あと、そういえば、「ユリイカ」で佐々木敦がえんえんと連載している文章(とりあえず即興論)で、いつのまにかついに大友良英の名前が出てきていることを発見。それもアノードを取り上げている。たしかにそうだろう。
 ただ、議論がこれからどこにいくのか分からないので確かではないが、アノードは、個人的にはシステムの方が即興よりも突出した形で完成してしまった、その意味ではどこか歪な作品であるように思う。僕はコア・アノードしかみていないので、もっとスローな演奏はちがうのかもしれないけれど、コア・アノードをみているとき、少なくとも僕は演奏されている方々の即興よりも、そこに立ち上がる得体の知れない音のシステムに驚いたし、その意味では、ほとんど「即興」であることを意識しないでいた。ひょっとすると、当初は即興を突き詰めようとして、しかしいつしかそのシステムが生み出す音自体の方が、それまで音楽が前提としていた何かを突き破ってしまった、そういう過程をふんだ作品のようにおもう。何か、というのは、たぶん正しく聴くことへの違和感であると個人的には仮定しているけれども、その後のONJOや展示作品などからも、即興性よりはシステムの前景化が目立つようにおもう。

 かわりに、即興はむしろ「二台のギター」やシャルルとの「異なる二つの時間」などの方で、ただしそこでの方法論はひょっとしたらアノードと同じであるかもしれず、それはわからないので、答えはだせない。
 まだ曖昧だけど、とりあえずの感想。

 というか、頭がぼうっとする。