考えてみたところ、

さいきん、偶然にも若い友人知人ができる。60年代のロックを愛しているというのだが、このご時世、そういう人は友達があまりいないらしい。アバンギャルドにも興味があるが、いまそれが続いているかどうかさえ、サッパリ分からないと言う。
 ということで適当に話し相手になり、よくわからないが勢いでヒバリ・ミュージックのCDとかCDRを紹介しておくが、良かったかどうか分からない。
 本当にそんな人たちライブとかしてるんですか、と問われ、もちろんアチコチで。と答えるが、これだけ情報があふれているのに、そういうご時世かと、なんとなくそんな最近。


 ユニオンで、偶然かどうか、ディスク・キャロサンプの2枚のCD。さいきん生演奏を見にいっていないので、しかし通販にはなぜか抵抗がある(単純に買い過ぎてしまう恐怖とか、あと試聴できる場合は、試聴だけして聞いた気になったりしてしまう・・・)ので、どうしようかと思っていたら。
 とりあえずGreen Zoneの新譜が、いやいや驚き。加藤英樹の作曲による長い1曲めが、感動と迫力十分。さいしょに、どこか中東風、とおもったら、タイトルがそういう意味らしい。なんとなしにマサダを思い出すが、しかし全然ちがうことが徐々にわかってくる。

 とくになんとびっくりしたのはギター。めちゃくちゃ若々しい・・・大友良英(というか、大友さん、と書く方がふさわしいような若々しさが)が、こんなに、全然バリバリ、ギタリストである。ものすごい轟音か、ロマンチックなアコースティックギターの両極かと思っていたら、まるで学生新人バンドの繊細で青臭いギタリストのように、エレックトリックギターでメロディを鳴らしている。
 もう途中で壊れそうな感じの繊細さに、僕はどうあっても立ち会うことはできなかったけど、ひょっとするとアベカオルの演奏というのはこういう繊細さの固まりだったような気がしたりする。

 それをふくめて、まるで新人バンドがこっそり出したCDのような趣き。しかしつよい政治性を含む。いまや最高のテクニックと神話世界に突入したマサダとはまったくちがうとおもうのは、このあたり。曲目の長さも意味があるし、録音のせいか、とてもライブ感がある(生々しいとか興奮とかいうよりも、聞いたらすぐ消えてしまうような独特のはかない感じがある)。
 政治的意味もふかく、終わった後にいろいろと頭をめぐらしたり。とにかく反時代的な繊細さと青臭さ。


 ちなみに、これはまったく批判ではないが、グラウンド・ゼロとグリーンゾーンと続けて、コンセプトとしてそこにまだかけている部分があるように前からおもう。これは、実は(フィクションかもしれないのだが)僕の興味は、兵器をつくりだすその現場にあって、それは現在に限らないのだが、いつともどことも知れぬ場所でも、兵器がつくられている場所がある。

 もし20世紀の発明の一つが経営学であるとするならば、その場所は、単に科学の粋、というだけではなくて、能率化の集約された場所にほかならないだろう。世界中からあつめられた部品をつなぎあわせる工程。同時に、多角的に構成される生産過程。実験のなかでうみだされた諸物質を化合するひとびとの手、それをみつめる眼。工場からくり出す街も、効率性のために調整された娯楽のなかで架空の消費がなされ、ほどほどに休息できる暖かい住居が待っているかもしれない。そこでは、作業中の事故もあるだろうし、作業者同士の恋愛も、管理も、訓練もあるだろう。そうして完成されたものは、はたして、暴力の独占という以上に、いま、すぐにでもその威力を解放すべく待機している、暴力そのものかもしれず、それはどこかの倉庫におさめられることになるだろう。
 その光景は、およそ65年まえのこの国でも、ごく普通にみられたものだったろう。恋愛、友情、衣食住、作業、物質の化合や組み立て、そのための無数の機械の群れ。実験と完成と流通とその使用、誰かのための最後の贈り物を作り続ける場所。それは、近く、もしくは遠い将来に消え去るべき場所のようにおもいながらも、その場所は、あちこちに、たくさんあって、それを支えるいくつもの思惑も張り巡らされ、そのあれこれは、グラウンドゼロとグリーンゾーンとおなじくらいのアクチュアリティがあるようにおもう。まだ、聞いたことはなけれど、それをモチーフにした作品というのも、あってもいいように思う。