日誌(つづき)

(つづき)


前者については非常にむずかしい。それに僕には素人の知識しかない。さらなる文章を必要とするだろう。そのうえで続けてみる。

まず、正しいかどうかは別として、これまでの大友作品に対する基本的なアイデアを示してみると、それは均質性に対する異議申し立て、というものだ。均質性は、近代性と読み替えられるかもしれないし、ある種のテクノロジーの発展による、機能性の目指すところ、といってもいいかもしれない。これらは文化のさまざまな局面で確認されるもので、たとえば遠近法、というのもその一つだろうし、あるいは美術館で白壁に画一的に並んだ展示、というのも、ある種のテクニックと考えられる。おそらく、それは19世紀から20世紀という長い時間をへて進められたものではないか(社会的な均質化・システム化と並行関係にあるかもしれない)。

そうしたものに対する異議申し立ては、これまで様々な形で進められてきたと聞いたことがある。たとえば絵画では、一方で平面への還元といった絵画独自の表現を追及するとともに、遠近法への抗いがあったとおもわれるし、それらはさらに彫刻において、まるでぶつ切りの断片を配置し、どこからみても全体が総合されないような作品がでてきたようだ。ただし、それに対しては、そうしたアンチ・総合性が、観る側からすると、作品全部を鑑賞した後からしか出てこないという問題が、例えば、一目見ただけではある形を取っているようにしか見えず、作品の周りをぐるぐると移動しない限りアンチ・総合性は実現されない(しかも全体を見終わった後、頭の中だけでのみ実現する)、いわば演劇的な行為を必要とするという問題がある、と聞いたことがある。呪縛は、そうした複雑な道具をもってしてしか解決できない。もしくは、それをもってしても解決できないほど深いのかもしれない。

しかし、大友良英はそんなことをすっ飛ばしてしまったようだった。理由は余りにも簡単で、目は前方しか見えないが、耳は360度、前後左右を一度きに把握しうるというものである。音は、四方八方から襲ってくる、その均質性を壊せば、空間全体の崩壊を、面倒な手間なしに触知しうるのではないか。
もちろん、ここでの相手は独自のテクノロジーをもっており、いかなる場所にいても音の位置関係を等しく伝達する、強固なシステムがある。それにたいして、大友はきわめて繊細に壁や天井からの反響を扱い、あるいは暴力的な電子音で鼓膜を攪乱し、さらに自分の演奏する音楽自体を多様に変型させながら、耳に対する空間の均質性をその底の底から突き崩してしまった。それは、ただ聞くだけで訪れる崩壊である。動く必要さえない。

そのとき、空間は幾層にもうねり歪み、そこに立ち合う者は、音の発信場所が特定できないままに、耳元と壁際からの、あるいはその間のどこかからの異物の入り混じった無数の音の挟撃にあうことになる。しかも、それは一定の形をさえとらず、時間芸術である音楽ゆえにすべての要素が蠢いてとどまることを知らない。
そこには異質な空間のみならず、異質な時間がいくつも同時に走ってさえいるといってもいい。まるで空間に裂け目が入ったのではなく、空間そのものが亀裂であるかのようだ。


これまで、この時空間における均質性の打破をひとつの特徴だと思ってきた。実際、ONJOの演奏は(ユリイカの特集などをみると)ときに演奏者にさまざまな拘束をかけさえしながら、そうした重層性を実現する試みであったようにおもう。あるいは、その実現のためにさまざまなシステムを試していたようにもみえた。いいかえれば、多様なものが並存できること自体の追及であり、演奏者も主宰である大友も、そして観客も、そうした多様性を聞き取ることそのものに重点があったように思う。(ちなみに「二台のギターとモデュレーション」のCDについては、これと違う関心がある・・・というのは、その音を正しく聞くことはできないのみならず、他方でそれはCDという形でデータとして保存・複製されているからだ。はたしてこのデータは一体何なのか?データとして、たとえばコンピュータ上で目で見て分析することはできるかもしれないが、それは耳では決して正しく聴くことはできないものである。その存在は確認できるが、表に現れるときは別の形をとってしまうもの。音響派、と呼ばれた作品にもみられるこれらは、一体何なのか?潜在態、とはこのようなものをいうのだろうか?)



しかし、ここではそうした多様性は、もはや前提であるようだ。多様性が、多様性であることのみでは、もはや美として判断されない。多様であることは、すでに前提として確保されつつある。いまや新たな空間はすでに切り開かれ、そこにおいて何をなしうるか、が問われつつあるようだ。先に触れたように、もはやその空間自体ではなく、そこでの表現の方向性を操作しうるところまで来ている。

さて、そのとき、あらためて表現する側と、その受け手の関係が浮上する、と考えられるかもしれない。つまり、ある種の表現の発信側と、その受け手、という関係が、多様性という枠組みをこえて、その表現の「解釈」をめぐって立ち現れるように思われるからだ。表現の方向性は操作されうるとして、では、それらは、どのように解釈される(する)のか?同じ方法論でなされた異なる内容とのちがいは、もしくは、そうした違いをふくめて、目の前で展開する個々の情景はどのように解釈される(する)のだろうか?

しかし、ここにおいては、簡単な与え手−受け手という直線的な関係は、単純には成立しない。なぜなら、このなかでは送り手さえもが自分が何をしているのか、それがどのように交叉して受け手のところに届いているのか、おそらく完全には把握できないからである。それはこの空間性を成立させている方法自体がもたらす問題であり、ここにさらに共演者という別の送り手が加わると、事態は一層、混乱の度合いを増す。

一つ言えるのは、演奏者もおそらくは観客と同じ立場に立たされているということである。彼らも、文字通り全体を把握することは、おそらくできていない。その意味で、このように聞こえている、という理解を、観客と同じ立場でのみ把握している。いうまでもなく、ここではすべて演奏は即興で行われており、定まった終わり方も、方向性も未知のまま、プログラムされていないまま進められている。

では、そこからあらためて、能動的であるとはどういうことか、が問われるかもしれない。ここでは観客もまた、そこでみえきこえるものを解釈しようとし、おそらく同じように演奏者もそれを解釈しようとしているだろうからだ。つまり、送り手も受け手も、積極的に解釈に乗り出さなければならない。そのうえで送り手はさらに音を出し、受け手はそれを(まるで共演者と同じ立場で)受け止めなければならない。
ここでは、送り手は聞き手と同じ立場に立ち、聞き手も送り手と同じ立場に立たされることになる。受動と能動が混乱するようだ・・・いや、こうした送り手・受け手という単純な二項対立がまちがっている。これこそが19世紀以来、芸術に憑いてまわった二項対立にほかならない。単純な受動理論を捨てなければならない。
聞く/見るということが、単に目を凝らす/耳を澄ます、という以上にクリティカルなポイントになっている。受け手も聴くというだけでなく、見るというだけでないところへ移動しなければならない。リアルタイムの変化を受け入れ、切り込まなければならない。そのとき、わずかながらでも受け手の主体性が綻びをみることになるかもしれない。

いいかえれば、これまでのテクノロジーに反旗を翻したとき、あらためてそれらに支えられていた主体性を取り戻す必要があるということかもしれない。これまでの空間を壊すと、それに囲まれていた認識も変化する。それをどのようにして立ち上げるか、が、いまや問われつつあるようだった。観客の論理が崩れていく。感じたのはその感覚。ただ観客であるだけでは済まされない。いや、すでに目の前で起きていることを勝手に修正している、観客であるというにはあまりに奇妙な位置に、いつのまにか立たされてしまっている。整序された空間を破壊したとき、垣間見える主体。そのときちらりと晩年のフーコーの顔を思い出しかけた。空間性を破壊した後、主体性の再構築から、技芸としての生に辿りつこうとしたその後ろ姿。それはすぐに消えた。 
はたして、あの演奏者たち、彼らは何を思ってステージにいたのだろうか。こんなことを考えているのは「僕」一人だろうか。


そう思いながら、情念を欠いた狂気が支配したようなステージが暗転するのを見て煙草に火を点け、側においてあったコーラを飲んだ。すでに氷は溶けて炭酸はぬけ、なかに入っていたレモンが、黒ずんでコップの底に沈んでいた。




ここまでかろうじて書き留めてみた。かろうじて、というのは、二つ目のセットがあまりにも楽しく、ノリノリになってしまったのでほとんどその前のことを忘れそうになっていたからだ。即興でありながら、抜群に楽しい。さっきまでの何だったのかとおもうほど。
アンコールもあって、満腹になってピットインを出た。





そのあとは簡単だ。ふたたび夜の池袋に舞い戻り、地下鉄から地上に出てすぐの蕎麦屋に入った。マルイの向かいにある小さな立ち食い屋。そこで肉天ソバを頼むと、関東の濃い出汁に黒みを帯びたソバ、そこに大きな豚肉の天ぷらを乗せて出てくる。豚肉にかじりつき、まがりなりにも香りのする蕎麦をすすって、3分ほどで食べた。いつもは華やかな夜の住人やサラリーマン、外国からの観光客まで目にする店内も、日曜の夜は僕とあともう一人しか客がいない。
ここは毎日、来るたびに蕎麦の香りも硬さもちがうという、立ち食い独特の特徴があって、今日はすこしかためだ。七味をかけて、ネギとあわせて蕎麦をかきこむ。これで充分に美味しい。どうして蕎麦はあれほど高くなってしまったのだろうか、逆にそれが分からなくなるほど。
100円玉4枚と交換する舌の愉しみ。その舌を、あらためて1ミリの煙草で、汚してみる。