寄り道したヨドバシアキバにレストラン街があるのを知ってビビる

浅草橋のパラボリカ・ビスにて、filament(大友良英Sachiko M)+高田政義+musikelectronic geithain/Sachiko Mの「filament/ 4 speakers」「Iユm hereノdepartures」を見に行く。


内容は・・・・・・無理矢理持ち上げる意図なしに(もともとそんな意図はないが)、凄いと思う。鈍く、しかし徐々に痺れたような衝撃がやってくる。
カッコよく言えば、最前線か。いや、前線にありつつ、何かを模索しているというべきか(しかし、それこそ「最」前線というべきだろう)。これまでfilamentをきちんと体験してこなかったのは悪かった・・・いや、それをいきなり一気に体験した感じ。確かに、議論されるべき価値は十二分にあるかもしれない。
さきの「without records」が一目で分かるものであるのに対して、こちらはパッと見、地味である。しかし、むしろこちらの方がジワジワと驚きが後から。そして、ひょっとすれば、いやおそらく、こちらの方が強烈だ。
いいかえれば、こちらの方が個性的というべきかも。ただし、たぶん、かなり時間をかけて見ないといけないように思う。逆に言うと、長時間、展示の中にいてもそれがまったく苦ではない。(別に他人の鑑賞に何かを言うつもりはないけど・・・同じ時間に見ていた人は、みんな立ち去るのが早かった気がする。パッと見るとコンセプトが分かった気になってしまうせいか・・・しかし、たぶんパッと見とは違うところに重点があるような気がする)。


先にまとめを書いておくと、ようやっと、ここでインタビューなどで言われていた「空間」の問題を、肌で感じたというべきかもしれない。それが正しいかわからないけど、何か独特の形で空間へ切り込もうとするあり方というべきか。あるいはタイトルに引っかければ主体の問題?(「私はここにいる」の「私」と「ここ」は何で何処とかいう話など)とか。サイン波で抽象的で、というのもあるけれど、そればかりではなさそうだ。

空間、といっても、なんというか、中心があって、みっちり充満するような空間体験ではない。むしろ壁に遍在するような、非常に薄っぺらい(というか極薄のような何か)ものの感覚、と、とりあえず言葉にしてみる。
薄い、という言い方が良いか分からない。ただ、壁や床や天井といった、室内を構成する輪郭線の部分にうっすらと存在するようなあり方。むしろ、室内に腰を据えているのと対比して、壁や天井に分散しているような何か、というべきかもしれない。

それを、耳で捉える。たぶん、あまり踏み込めないけど、耳で捉える、というのも重要だと思う。モノを、視覚的に把握するだけではなく、見えないが体感できるという形で、耳でも把握する。
空間が展示されているのだとしたら、それを、目と耳で、同時に/別々に、かつ並行的に把握する。だから、視覚だけで把握していた空間とは、別種の空間の手触りがある。これが、この2つの展示の肝であるような気がする。
たぶん、写真だけ撮ってみても、それは展示の半分あるいはごく一部に過ぎない。というか、何も分からないだろう。だから、ある一定時間を過ごす必要がある。驚きはその後から、見ただけで理解してしまうのとは違う感触が、やってくる。そこが面白い。

ここでは作者の個性をささやかに、しかし強烈に感じる。それも見終わった後に、だんだんと驚きが増してきた。そう、「MUSICS」でチラリとだけ書いてあったけれど、このあり方は、まさにどんな空間にも入り込める・・・あるいは部屋のなかで何が起こっていようと、さしあたり無関係のままに存在しえる、そんなあり方かもしれない。
いや、いずれにしても実際に見ないと駄目かもしれない。見た人でないと、話し合うことさえできないかもしれない・・・・・・逆に言えば、それほど強烈で独特の体験。



簡単に書いてみれば、どちらもサイン波らしき音がメインで、どちらもスピーカーが4つある。

ただし趣はだいぶちがって、「Iユm hereノdepartures」はとても繊細な、まるで声のような音。(ちなみに個人的にはかなり怖い印象を受けた。空き室に「Iユm here」と題されて、話し声のように音が別々のスピーカーから出ているし、なぜか床に穴まで空いているし。さらになぜかカーテンが揺れていたりしていた・・・・・・。わたし、が、まるで四方の壁に溶け込んでいるような・・・曇天だったせいかもしれない)。

一方、1階のfilamentの方は、廃墟のような部屋に、なんというか強弱高低大小色々と四方から、まるで体を通り抜けるような音がクールに、かつめまぐるしく(?断片的というわけでも、スピーディーというわけでもないが、まったく全体が把握できないくらいに絶えず変化している)訪れる。
これらはループしているんだろうか。気になったりしながら長時間すごす。スピーカーが高性能なのか、どれほどいても苦ではないし、ひたすら音と空間を堪能。
かなり長時間いた。たぶん二時間強はいた。これだけ長時間いられると言うこと自体、けっこう驚き。
(ちなみに二階の展示側のお手洗いをお借りしたら、よく分からないけど入った途端、耳元で、音が個室に密集したような凄い状況を体験・・・一瞬、もしや何か仕掛けがあるかと思ったが、扉を閉めたら収まったので違うのだろう・・・なんだか凄かった)



ふたたび感想(というか繰り返し)。
どちらもサイン波らしきものがメイン。ただし微弱音という感じはしなかった。それよりも、次第に驚くのは音のあり方。中心からドンと放射するのではない。あるいは四方にスピーカーがあるからといって、中心部目がけて襲いかかってくるのでもない。むしろ、壁やスピーカーそれぞれに主体が分散しているような、あるいはその壁と壁の間の交信としての音を聴いているような、そうした感覚。

だから、サイン波音楽、と一括りにされてしまうことがあるかもしれないけれど、そんなことはたぶん問題ではない。いいかえれば単にミニマルの極限のようであるのみではなく、それに留まらない形で発展してものかもしれない(もしくは元々の理想型を実現できるところまで来ている?そのあたりは分からない)。

僕はナイーブなので、空間というと、即座に教会とか大聖堂とかの、中心からぎっしりと充満した空間感覚を想像してしまうのだけれど(そしてたとえば歌として、音楽もその空間形成を補助するのだけれど)、ここには、たぶんそういう「中心」(とか壇上とか)のあるものとは、全然違う方向性の空間があるように思う。くりかえしだけど、空間を主体的に作るというものではない。むしろ室内をつくっている境界面、輪郭線の方から、自在に空間を通り抜けていけるようなものを想像する。それは目に見えるものとは違う。耳で捉える空間の問題だ。

そこで、少しズラすと大友良英が空間といいだしたのがわかる気がする。ひょっとしたら、たぶん彼は、そうやってあるものが室内の際に薄くうっすら存在している中に、別のものを容れてみようと実験しているのではないか。それによって、いわば空間を幾重にも重層化させようとしているのではないか?
いいかえれば、サイン波が作り出すのは部屋に寄り添うようにうっすらと構成される音の容器みたいなもので、そのなかに全然別のものを入れようとしているのではないか。場合によっては、そこに中心を二つ作ってみたり、あるいは全然違う文脈のもの(歌謡曲とジャズとか)を容れてみたり、複数の演奏グループを配置してみたり、そうすることで空間の内部も多重化させ、切り分けると同時に混在させようとしているのではないか?(しかも複雑なのは、サイン波はその内部の空間をあっさりと横切ったりもする。そのうえ沈黙という時間もあったりとか)そうした重層化を試みている?
裏を返せば、そうすることで、複数の音楽を共存させることができる、そうしたものを試みているように思ったりもする。


この理解が正しいのか、またその試みがどうなるのかは、まだ分からない。というか、それがここでの問題ではなく、むしろそうしたことを思わせる摩訶不思議な、あるいは強烈な空間が展示では拡がっているように思える。いや空間が問題なのか・・・そうではなく、「空間」を問題化してしまうような、問題提起的なものが展開されていると思う。これは、要するにかなりヤバい作品群ような気がする。いや、あくまで普通の音楽環境にいた大友良英が空間へとテーマを移動した、そのきっかけがここには見えるようにも思われる。それだけでも、かなり見に行く価値はある。

見た目は地味だと思う。けれど、ゆえに強烈。これはたぶん研究ができるくらいの質がある(あるいはもう誰かがしている?)。ああ、ほかにも、とても沈黙の時間が多かったように記憶するけど、それをしっかりと確認して展開するには至らず・・・・・・それも大事な論点かも知れない。
というか、これで五〇〇円は安すぎる!