存在の眼に視えない軽さ、について?

夏バテはクリアしたものの、あれこれと時間が合わず。8月上旬に目白押しだったライブはどれも行けず。ぐったり。


浅草橋のパラボリカ・ビスへ、ふたたびfilament(大友良英Sachiko M)とSachiko Mによる展示を見に行く。最終日。

2回目、というのは実はかなり珍しい。ふりかえると「バ ン グ ント」展以来かもしれない。とはいえ「without records」と立て続けではあるが・・・
といっても、今回はファンだからというというよりもむしろ、あらためて興味をもって、先回見た感触を確認しに行く。それも、どちらかというと2階のSachiko Mによる展示を中心に。
先回はこの二つをゴッチャにして捉えてしまったが、思い返すに2階の展示が印象深く、行くのが面倒だなとか迷った挙げ句、やはり行く。夕刻、陽が落ちかけ、しかも一度行ったはずなのに道に迷う。

結果は・・・・・・うーん、やはりヤバい印象。いや、ラディカルというか、なんというかいくつもの点で、色んな問題をあっさり乗り越えているような凄さを感じる。今さら・・・といわれるかもしれないが、今さらながらに唸る。
どれほどの来客があったのかは分からないし、ましてやアカデミックな人々が来たかどうかは分からないけれども、たぶんきちんとアカデミックな評価を受けてしかるべきものを感じる。それも、どちらかというと美術作品として真っ当な評価があっていいように思う。はたして、アカデミーの人たちは見に来たのだろうか。


というのも、たぶん字面で捉えただけとは、おそらくだいぶ違うものがそこにあったように思われる。
たとえば、そもそも、ただピーッとサイン波が鳴っているだけだと思うと、大間違いである。びっくりするほど色んな表現があって、持続音だけではない。(それは例えば「ウルトラミラクルラブストーリー」のサントラを聴けば分かる)。また、部屋を使っているからといって、音が立体的に聞こえるというのではない。むしろ、普通ではどう考えても変な位置にスピーカーがあって、その意味では全然立体的ではない、どちらかといえば奇妙な遠近感がある。むしろ、そういう常識から外れているというところから、音と空間の問題を捉えなおさなければならない。
それに、壁で音を跳ね返す作家がすでにいるのは知っているけれど、単に音の広がりではなく、見た目も含めて、どうやらきちんとした主題が立てられていることも見落としてはいけないだろう。「わたしはここにいる」というタイトル自体も見逃せない。
また、たしかに部屋はあえて白で固められているが、とはいえ、その表現も、よくある幾何学を立体化したようなミニマル表現ではない、もしくは、人間の存在を超越してしまったようなウルトラミニマルな空間ではない。むしろ、たぶんそこには訪れる人の存在を前提にし、また、あらためて存在のあり方を模索しているような、いずれにしても人間の存在を抜きにはできない空間である。おまけに、その空間にしてさえもが、サウンド・アートだからといって密閉されているわけではない・・・驚くべきことに、文字通り床には下階まで貫通する穴が空いているのだ(!)。

こうしてみると、単に音楽の空間的展示や、あるいは「サウンド・アート」というような音楽寄りであることを意味深に匂わせるものに留まらない、ひとつの作品として充分に成立しているもののように思う。しかも、それらが、わずか一部屋の展示、それもあまりにもささやかな風情の展示に組み込まれている。
これは・・・・・・たぶん、おそらく、驚いていいように思う。

(比較して、1階のfilamentの方は、音楽が展示より強いというか、あくまでライブの感覚を常設としてハイレベルに再現した、という感じがした。
ちなみに、以前は天井からストロボ並みに強い白色光のチラつきがあったが、今回はなぜかとても光が弱くなっていて、部屋に入った瞬間はほとんど真っ暗だった。おまけに超重低音のシーンで入室したため、暗闇にうかびあがる橙色の照明とともに、物凄い圧迫感。文字通り空気が振動し、鼓膜をじかに撫でられているような体感ぶり。)



適当に論点を羅列してみる。まず、まず全体として、音響システム自体が作品であることが挙げられるだろう。とくに「空間的」といっても5.1ch.のようなものとは異なり、あえて段違い平行に置かれたスピーカーは、すべてが正しく聞こえる場所などありえない。というより、おそらくそこからハミ出しているということが、作品として成立している条件のように思える(いいかえると、日常的な使用には役に立たないような狂ったものではないか・・・)。
しかも、そこから出るのが、音といっても何処から聞こえてくるのか分からない瞬間がある。いや、いつから鳴っているのかさえ判然としない時もあり、やはり遠近感や平衡感覚が狂う。しかも持続音に限らない表現の多彩さがあって、ますます正常でない音響と空間。


それにやはり空間という問題があるだろうし、とくに美術よりの視点からみてみても変わっているように感じる。というのも、空間といってもここでは遠近感や、あるいは中心というようなものがない、もしくは徹底的に回避されている。

そういえば、イタリアの何処かの大聖堂で壁画の真ん中に立つと、平衡感覚がなくなるスタンダール・シンドロームというのがあるらしいけれど、そういった意味でも、かなり特殊な空間が作られているというのは確かと思う。というか、普通でない。これは、うーん、なんとなく中心性の回避、という印象を受ける。とくにそれが面白いのは、なんといっても耳で聞くというとき、目と違って360度を一気に把握できるということもあって、そうやって耳で捉える空間の感覚がおかしくなっているという、美術作品としては、とても変わった体験。

さらに似た点で、これは、単に「サウンド・アート」というような、耳だけによってしまうようなものとは、少し違う点があるようにも思われた。というのは、面白いかどうかは別として、たぶんあの部屋は音が無くても作品として成立すると思う(たとえばキーファーの絵画の現実化としてとか)。いいかえると、たぶんあの部屋にいて、目を閉じて耳だけを澄ます、という人はあまりいないような印象を受けた。

もっと言いかえると、あの展示は、空間といっても、耳だけに頼るのではなく、目で部屋を眺めながら、同時に、耳でも聞く、というところがあったように思う。個人的にはそこが面白くて、つまり目で見ている空間と、耳で聞き取る空間が、まったく同じではない、違うものである、というのにびっくり。
つまり、ここで感じたのは、目には見えないが、耳では感じられる「何か」の存在だったのではないか?まるで、これは幽霊?・・・そう思うと、部屋のカーテンがなぜか揺れていることに気づき怖れをなしたのだった・・・・



で、そうしてみると、やはりタイトルが気になる。・・・・・・・「わたしはここにいる」。荷物が部屋にあるので、どうやら「わたし」はここに居たらしい。しかし見えない。が、いまも居るようだ・・・・・・
といっても、分かるのはスピーカーと、もしくは聞こえる音しかない。ややファンタジーだけど、おそらく「わたし」は、その4つのスピーカーか、もしくは部屋中を反射している音の、いずれかではないかと想像してみる。

で、なんとなく面白いのは、音といっても、もともとオリジナルの音源があった上で、それを色々な方法でリピートしたりループさせているらしいことで、要はオリジナルの存在ではないらしいということ。そのコピーであり、しかも4つの発信源それぞれに配置されていて、本人ではない。というか、音源自体も会場で販売されている・・・


最初、部屋に入ったときは、4つのスピーカーのように思った。まるでスピーカーが人の口のように何かを喋っているように感じたからだ。そうすると、「わたし」は4つに分散したように感じる。

ところが次には、ひょっとして、このよく分からないが聞こえる音そのものではないかと思い始めた。もし、この展示が一切音がない作品だったら、室内に漂うモヤッとした空気にそれを感じたかもしれないが(そしてたぶんそういう作品も沢山あるように思うのだが)、その空気の中から滲み出るようにして現れる音こそが、消えてしまった「わたし」ではなかろうか。そう、しかも、その音自体がオリジナル音源のコピーであり、そのループから生まれているのだ・・・

この想像はなかなかビビった。というのも、ふつう幽霊というのは、そういえばどうして目に見えるのだろう?よく考えれば(いや考えてないけど)、目に見えるのはおかしい。むしろ、目には見えないし、声も言語としては理解できないが、定位のはっきりしない空間に周波数として触知しうるものかもしれない・・・・・・・そう思うと、スピーカーが、まるで幽霊をとりかこむ結界のように見えたりして。
延々とループによって存在するオリジナルの亡霊である「わたし」が、「ここにいる」・・・?空間の歪みはそのせいだろうか・・・・・・・?

うーん、まあ、ちょっとしたファンタジーの飛躍かもしれないけど、目に見えないが耳では捉えられる存在、というのはけっこう凄いと思う。というか、そう考えてみると、真面目にかなり面白いのではないだろうか。そんなに非論理的な感想ではないようにも思うし。
いや、そういえば終了前日のライブは「お祭り」みたいだったようだけど、ということは、これはひょっとして、「納涼」か・・・?


うーん、感想が長くなったけど、本当はこれをかなりマジで書き始めようとして、疲れてやめてしまったのだった。あまり全然アタマを使ってないけど、真面目に書けば相当長いし、というか、(この感想そのものがどこまでオリジナリティがあるのかは別として)ちょっとした修論くらいにはなってもいい対象ではないだろうか。


というか、実はしかもさらなる論点もあって、たとえば「外部」の問題も挙げられる。なんといっても床に穴は空いているし、しかも最初に見に行ったときは、展示の扉が全開で、そのこと自体にかなりショックを受けたのだった(なぜか2回目の時は扉が閉められていたが)。
ふつう、音を素材にした展示で、あんなに開放的ってありえるだろうか。というか、よく「外へ開かれなければならない」とか「境界をこえなければならない」と言われるけど、まあなんともあっさりと、外へも開かれているし、境界も越えている。これは、普通にあることだろうか?
(扉の開閉の正解が分からなかったので、当然ながら、開けたり閉めたりしつつ、その境界に立ってみたが、何も起きなかった・・・そんなものだろう)

あとは最後、まあ色んな見方があるだろうけれど、全体として個人的には、そのインパクトも含めて、デュシャンレディメイドを想像した。
とにかくすべてが、あっけらかんと、かつゴロンと転がっているような印象。サンプラーのプリセットのサイン波を用いる、という当初の衝撃も込みで、もともとあったサンプラーやスピーカーがそのまま使われている。それも、これみよがしではなく、あっさりと使われている。
それに、オリジナルのコピーがループしながら、沈黙のなかから時折、かついきなり出現する、おまけに目でも手でも掴めず見えず、というのも、デュシャン的な薄さを感じなくもない。なんだか、ものすごい変な存在に出会ってしまったようなビックリ感。勿論、デュシャンの時代はあくまで視覚性がすべてだったかもしれないが、ここでは聴覚までが範囲に含まれている・・・


・・・これは、もうキリがない。(たとえば消えてしまう、という点では、冒頭に触れた「バ ン グ ント」展との近接性も感じた。もちろん違いはあるし、それに展示としてはオフサイトも含めればこちらの方が早い)。ので、もう止める。まあ、もう本人に訊ねないと分からないことも多々あって(上に書いた扉とか、あと揺れるカーテンは意図的かとか・・・いや、実は最大の問題は「departure」が何か、ということである。扉にこだわるのはそのせいもある)、いずれにしても、半分くらいは個人的なファンタジー的解釈である。でも本当に幽霊だったら、かなり面白いけど、それもよくわからない。

そういえば最後のライブではユタカワサキとのデュオもあったらしいけど、それはかなり見たかった。文字通り空間性を使った演奏だっただろうと想像。
うーん、いずれにしても、大変なことが起きていた印象。しかも一見、まったく大変そうでないところが、やっかいでありながら、独特の感覚で魅力的。
しかも、こうして展示は終わってしまうと、たぶん写真でも映像でも、二度と再現することはできないだろう。あの現場とあの空間がなければ、おそらく無理だ。けれど、実のところ、そうしてさっと消えて無くなってしまうところまで含めた独特の軽さがあって、そこまでも込みで、とても魅惑的だった。