怖ろしいことについて

 たまに書いているけれど活動の拠点が池袋。なので、先週の土曜日は凄いものがあった。両党首が演説に出現し、7時半から8時までは、いってみればお祭り騒ぎ。
 あれこれと書きたいこともあるけれど、まずその人の入りに驚き。ついで19時30分をすぎたら、いきなり頭上を旋回するヘリコプターに驚き(ちなみに5機)。そして何より驚くのは、あの騒ぎはまるでどこか空想めいたところがあったことかもしれない。とはいえ、現実に交替劇が起きてしまった。ある意味、歴史的な30分間に立ち会ったのかもしれない。そうでないのかもしれない。




 前回の文章を読み直してみたところ、疲労が滲み出ているのかかなり文体がおかしい。まあわざわざ直すつもりもないけれど、そういえば、1階のfilamentについても、2階の展示と比べてみると面白そうだと思って続き(できるだけ短く)。


 思い返すと、1階のfilament(Sachiko M大友良英)の展示は2階のSachiko M個人の展示と比べると、対称というのか分からないけど、色々と違うらしいことに気づく。
 まず展示自体は、密室といってよい部屋で、それも2階は白い壁があらためて立てられていたのに対し、床も壁も剥き出しのままである。コンクリートの壁が迫力があり、まるで廃墟の趣き。とくに床の上には何も置かれていない。その雰囲気を強めるのが、ちょうど密室の真ん中にある白色灯で、ストロボのような強い光が、目が眩むように点滅する。白い光に照らされるコンクリート剥き出しの部屋は、殺風景きわまりない。
その部屋の四隅にあるのが、やたらと大きく高性能そうなスピーカー4台。そのすぐ上に、橙色の照明がそれぞれ吊されていて、かぼそく光っている。最初に行ったときは、天井の白色灯が過激な点滅を繰り返していたけれど、最終日にはそちらはほとんど消えそうで、ほぼ暗闇に近い廃屋に、4箇所の橙色の照明が不気味に揺らめいていた。


とはいえ、装置はほとんど2階と同じに見えるが(4台のスピーカー、何もない室内、そして音)、あらためて比べると、かなり違うことに気づく。たとえば、ここでのスピーカーは、2階のように何処に立てばいいのか分からない、バラバラの変てこりんな位置にはなく、明らかに4つのいずれもが部屋の中央を向いている。
しかもその不穏なまでに高級そうなスピーカーからの音も、超弩級の低音から何かしらの摩擦音、打撃音、ノイズまでを含んだ強烈なもの。2階の方はどちらかといえば繊細で耳に優しいとさえ言えそうだったのに対して、緊張と集中力を要する緊迫感がある。
そしてその音楽については・・・・・・個人的な理解の限界を超えている(具体的には何ヘルツとか、どういう技術かとかがわからない)ので、記述することはできない。けれど、にもかかわらず奇妙なことに、それが「音楽」であると理解する。ひょっとしてただのノイズにしか聞こえないのかもしれないが、にもかかわらず、それは何か音楽であり、しかも怖ろしく前衛的で洗練されたそれだと感じた。
その凄さを記述することはできない・・・たとえば、その音の怖ろしい立体感は、体験することでしかおそらく分からない。抽象的な直線めいた音はワイヤーが頭を貫いたように走り抜け、摩擦音は背筋のすぐ後ろを巨人が歩くようにゆっくりと通り過ぎ、打撃音の近隣に雷が落ちたようなショックに、文字通り飛び上がる。そして、室内全体が震えているようなものすごい重低音の持続。どれも、まさしく体感するような音というべきか。部屋の中央に立っているのに、すぐ耳の真後ろにスピーカーがあるのではと錯覚さえするほどに、あるいは、音自体を触れるのではないかと言うほどに、抽象的でありながら具体的、もしくは即物的な感覚。
そしてここでは、2階で強く感じた「わたし」は気配もない。そうした即物的ともいえそうな音が、沈黙の中から現れ、通り過ぎていく。
しかし、奇妙なことかもしれないが、やはりここにあるのは音楽のように感じられた。それも、さらに奇妙だが、まるで「即興」した「音楽」のようにさえ感じる。
よく考えれば、これは普通ではない。定かではないけれど、展示では繰り返しがほとんどないように組まれているというのだから、おそらく数種類の異なる音源のループをあわせて、その組み合わせによって同じ場面が発生しないように仕組まれているのではと想像する。いずれにしても、もともとのオリジナル音源をただ流しっぱなしにしているだけではないような気がした。
いや、別にループしていても構わないのだが、いずれにしてもほとんど音楽としては聴けない代物と言われてもおかしくない音ばかりである。しかし、リズムもメロディも絶無というほど消されているにもかかわらず、きわめて複雑な音楽、もしくは複雑な音を使った即興であるように感じる。感情的ではないが、機械的というわけでもない。機械的というにはリズムがなく、そして音の出現が予想できない。電子音と物音ばかりで人間味のある音はほぼ排除されたうえで、ただ、純粋に抽象的な「即興」の営みがそのままある、というのに近いかもしれない。もう作者の顔も気配も見えない。が、しかし、即興されてできる音楽だけが、あの廃墟のような空間を支配しているようだ。
あるいは、このような意味で、ここでも「わたし」は消えている、といっていいのかもしれない。しかしその消失はまったく意味が異なる。ここではただ音もしくは即興された音楽だけが現前して、「わたし」は痕跡も残されていない。


どうにも文学的な表現にしかならない/できない。しかし、主体が消えて、ただひたすらに即興された音楽だけが出現する、というような感覚は、ひたすらに魅惑的である。それは純粋にアクシデンタルではない、手が加えられ、加工されている。しかし、まるでその場で何かが出現したような音が無数に室内に訪れ、それらにひたすら不意打ちされ続けるしかない。果たしてどこにクライマックスがあるのか分からないままに、不意打ちされ続けるという体験は、フリージャズやその展開の延長にあるように感じる。まるで延々と続く充実したライブを体験しているようだ・・・立ち去ることができない。


こうして書いてみると、1階と2階の展示は、いくつかの点で似ていながらもかなり違うところがあるようにおもう。1階は音は立体的だし、ある種、演奏的でもある。2階で気になった視覚と聴覚のズレというか重なり具合についても、1階はどちらかというと、音の世界に合わせてインテリアとして構成されているようだった。あるいは、「わたし」の消え方・・・・・・一方は、「わたし」は音として残り、一方では完全に消失して、代わりに純粋に抽象化された音楽が出現する・・・こうした二通りの消え方をそれぞれで示しているようだ。


当て推量に当て推量を重ねたこの感想が、どこまで当たっているのかは、正直分からない。素朴な感想としては、展示としては2階のものが圧倒的なコンセプトと完成度があり、音楽としては1階のそれが他のあらゆるものを蹴散らすほど前衛的だった。
もう何度も繰り返すけれど、これらはどちらも、きちんとした研究に耐えるものだと思う。あるいは、もっと取り上げられていいと思う。むしろ海外で進んでいるのかもしれないが・・・
いずれにしても、個性的というにはその内容で余りにも主体が消し去られているけれど、にもかかわらずきわめて個性的、それもSachiko Mの独特の個性を感じるものだった。本当にビビる。展示ということで、そのスタンスがクリアに見えたのかもしれないが、まあ、こちらが当て推量なのでそのへんもよく分からない。そういえばソロ作品で、大友作品のために作成したものをそのまま抜き出してCDにしたものがあったが、考えればそれもまた怖ろしい主体性の投げ遣りぶりである・・・怖ろしい、やはりそうしたところは本当にデュシャンを、たとえばただの製品としてグリーンボックスを延々と作っていたデュシャンを想像する。
うーん、ここまで書くと、どうしてこれがensemblesの「extra」なのかやっと分かった(ついさっきまで不明だった)。たぶん、もう全然違う性格のものなのだろう。しかしensemblesの核でもあって、それを目の当たりにしたような気分。もっと早く、会期中にここまで書いておけば、もう1回は観れた、あるいは間違ってこの文章を見た人が足を運んだかもしれない・・・いや、終わってしまえばそれまで、という雰囲気もあって、それはそれでいいのかもしれないけど。
 とにかく怖ろしい・・・現在もっとも怖ろしい生きている作家の作品を見たような気がする。もう、それ以上は言えない。