自然と人工のあいまいな対象・・・・・・

 旧練成中学にて、大友良英+伊東篤宏+梅田哲也+Sachiko M+堀尾寛太+毛利悠子+山川冬樹「ensembles 09」展を見に行く。オープン初日。


 方向音痴のため、案の定、道に迷う。御徒町から行ったのだが、なぜか一度アメ横に突撃。大間違い。
 松坂屋デパートに沿って、大通り沿いに、一風堂とかベローチェを横目にまっすぐ。すると大通りの二股が一つになるあたりから信号3つめくらい(持参したヤフー地図による)。向かいにふたたびベローチェがあるところで、その店の脇を入ってすぐ。思ったよりだいぶ近い。というか、2つのベローチェの距離が近すぎる。

(注:以下の文章は内容の一部に触れているので、事前の情報を知りたくない方は読まない方が良いです。また、以下には「べき」「必要」といった強い言葉が使われていますが、そのように思ったということを含めて、あくまで一つの感想として捉えてください)





 内容は・・・・・・これはたぶん、色々な意見があるだろうと思う。というか、おそらく、一見しただけで判断したり、展示を「見て」(文字通りの意味で、目で見るだけ)その見た目をもって美観とすると、おそらく評価はほとんど「?」であると予想する。


 そのうえで言うなら、大変困ったことに、なんだか意味不明に衝撃を受けた。それも、かなりの時間をかけて、2回、違った形で驚く。これはもう予想外で、そもそも最初にパッと見たときとは、立ち去る時点での印象がまるで違う。



 最初の印象は、どちらかというと「こぢんまり」という感じだった。たしかに、場所はやたらと広い。本当に中学校の校舎まんまで、階段も建物の脇を上がっていく。そして出た屋上。
 校舎の建物の床面積がほぼ全部つかわれていて、サッカーコートが丸々一面あるくらい広い。そこに、壁というか四方では金網のフェンスで囲われていて、それがそのまま天井を構成する(柱はない)。天井といっても、これがまたやたらと高く、確かに思い切りサッカーボールを蹴飛ばしてもぶつからないくらい高い。10メートル近くあるかもしれない。

 そんなやたらと広いしデカい囲われた場所に、作品がいくつか置かれている。まずそんな印象だった。それぞれの作家によるものだろう、なんとなく個性から見分けられる作品群の展示。とはいえ、あまりに場所が広いので、なんとなしにポツンポツンと作品が置かれているような印象を受ける。それぞれは音を出しているけれど、なんだかよく聞こえないものも多い。


 という第一印象は、しかし途中から激変してしまった。
 まずもって、作品がパラパラとある、というのは間違いである。逆に、これらの作品はそれぞれ少しずつ相互に関係しており、むしろ、この広くデカい空間の全体に複数のネットワークが張り巡らされていて、作品はその中で置かれて作動しているといっていい。

 というのは、現場にいた何人かの方に聞いてはじめて分かったのだが、そもそも作品といっても単に地面に置かれているだけではないらしい。むしろ、置かれているのは一部分で、そこから見上げる高さにある天井間近の装置とリンクしており、それで一つの系をなしている。のみならず、その作動するキッカケは、作品単体では完結していなくて、なんと全然関係なさそうな他の作品の影響を受けているというのだ。

 実際、床面にある作品ばかりに目が行っていたが、よくみると、見上げれば天井からいくつも何かの部品めいたものや何かがぶら下がっており、またいくつかある照明もチラチラと点いたり消えたりしている。そして、それらもまた全体の一部として、他の作品へのキッカケになったり(ならなかったり?)しているのだ。

 つまり、ここでいう全体というのは、一つ一つの(とはいえ結構おおきいが)作品ではない。それは、このフェンスがつくりだしている会場全体のことであり、いままで作品をみているつもりだった観客は、むしろその全体の中に取り込まれてしまっている(!)。それも、何も気づかずに足を踏み入れた、その最初の瞬間からすでにそうなのだ(!!)。


 これはほとんど、図と地が反転するくらいにびっくりした。
 第一印象は、完全に間違っており、単にパラパラと作品があって、なんとなくそれが全体をなす、というのではない。そうではなくて、個々の作品を動かす具体的なシステムとして、この巨大な会場があり、床から天井から、あるいは前後左右からそれぞれの関係性を想定して作品を捉える必要がある。
 結果として、いちど見たものを、あらためて今度は、頭上をみあげたり、視界の隅にいってしまう前後左右のそれぞれの動きをも気にしながら、見て回ることになる。文字通りあらためて、全部をみなおしていくと、それまでなんとなくパラパラしていた印象の展示が、実に凄まじい密度に満ちているように思われてくる。
 とくに、それぞれが関係しているということに注意し始めると、ささいな動きさえもが取り逃がせず、あちこちで動いているいくつもの動きに圧倒された。しかも(これも訊いてわかったことだけど)どこが最初のキッカケかは、もはや作家にさえもわからず、複雑なループとフィードバックで構成されているのだという。そういうことも踏まえると、一見こじんまりしていたはずの展示が、やたらでないスケールと繊細な密度を有していると思われてくる。


ところが、これで終わりではない。たぶん、ここまでの過程を経て、ようやく耳が、作品に追いついてきたのかもしれない。実際、それまでは作品をあくまで「目」で「見る」ということに一生懸命で、そのうちにちょっとずつ、どれもが何かの音を(いつもではないが)出していることに気づいてきた。

そのうえで、ふとこの全体を把握しようとしたときに、どうやら耳が目を追い越したらしかった。少し息を抜いて(というか、少し疲れたので)、ちょっと壁によりかかって、どれかの作品ではなく、広角から変化を見ようとした。

 とたん、いきなり物凄い種類と量の音が把握される。それも前後左右上下から、さらにフェンスの外の街の音まで、大小おおきさも異なれば、金属音から電子音、物音、騒音まで種類も異なる、文字通り多種多様な音がそれぞれ変化しながら流れていることに気づく。
 このとき、さらに視覚的な変化も目に入っている。光、揺れ、回転、モーターの動き、風による揺らぎ、空にある雲の動き、そして会場にいる観客まで、いくつもの変化が目に入ってくる。
 このいわば二重の動き、二重の変化が、同時に一挙に展開していた。これら相互が、完全に別々なら、まだ分かり易かった。しかしこのどれもが、互いにわずかずつ関係しており、かつ自律的でもありながら一切の変化が進行している。目と耳で、というより、耳と目で、これらを一挙に把握すると、スケール感というなら尋常でないほど複雑で多重的な変化が押し寄せて圧倒した。


 これはほとんど驚愕した。制作者によるパンフレットに書いてあることをまんま信じるつもりはなかったはずだが、というより、これがそこに書いてあることと同じことかは全くわからないのだが、予想を超えて複雑な事態が発生しているらしかった。とはいえ、それは、ぼうっとしていられる(もしくはぼんやりしている)ほど生易しいものではない。感度ギリギリというか、それを振り切ってしまうほどの密度と変化の多様さで、こちらのメーターが軋んでいるのがわかる。自然と人工が渾然一体となって、何かが生まれている・・・・・・


 ここで興味深いのは、そもそもの場所の問題だ。屋外であり、そして屋上であること。屋外といっても、道路と同じレベルだったりすれば、ビルに囲まれたりして街の景色や空を見ることはできない。とはいえ、屋上に上ったとしても、高い壁のようなフェンスで囲われているなら、外の音はかなり妨げられる。
 
 そうではなくて、ここでは囲われてはいるが、金網は文字通り無数の穴が空いているようにして、景色がすっかり筒抜けなのだ。だから、置かれてある作品を近景として、中景を会場だとすれば、遠景は壁ではない。ここでの遠景は、外の自然に、つまり街と空へと広がりだしている。このとき、もう「全体」という考えは、ほとんど意味がないかもしれない。その淵は、果てしなく空と地面に広がっている。(しかも興味深いのは、どうやらこのフェンス自体が、制作者が用意したと言うより、もともとあったものをそのまま、わざと残して使っているということだ)
 
 そういえば、何群ものオーケストラを駆使した演奏や、広域に分散して器楽を用いる演奏もあるけれど、ひょっとしてそうしたものと同じか、あるいは、それより広大なスケールのものが、つまりはよく分からない何かと何かと何かの共演が、この会場で生まれている・・・・・タイトルを思い出した。マジで?と思い、上を見上げると、いくつかの照明が見え、その向こうにフェンスが、そしてそのフェンスの向こうに、東京の夜空で雲が動いているのがみえた。これは妄想かもしれないが、もしそうだとしても、それはそれでかなり面白い。



 ・・・こうしてみると、最初の印象がいかに適当かわかる。正直、こうした体験が(とくに2つ目)どこまで一般的なものかはわからないが、おそらく一つ目の驚きまでは、誰もが辿ってもいいと思う。

 だから、一つ一つの作品をちょっと眺めて、原理がわからないけどなんとなく「ふーん」というだけの人は、たぶんもう一度、足を運んでみる価値があると思う。たぶん全体が関係していると意識するだけで、まったく見方が変わってしまうことは間違いないだろう。
 おそらく、そこからようやくこの展示を体験するための出発点に立ったことになるのだろう。いや、そう書いている自分も、ひょっとしたらようやく出発点に立ったに過ぎないかもしれないが・・・・・・


・・・

 とはいえ、個々の作品もじっくり見るとそれぞれかなり個性的。というか、どれも一見しただけでは分からず、今回は疑問がついにピークを超えてしまい、会場にいた方々に質問する。というより、質問して始めて、どれもこれも手が込んでいることに、あるいは、一つの作品が単体としては完結せず、他の作品と関係して作動していることに気づく。

 思わず伺ったのは堀尾、毛利両作家だけど、前者は振動を電気に変えたり逆に振動にしたりという複雑なループをつくって、それでトレー内の水面に模様を浮かび上がらせるものであったり、後者はあれこれのコイルとモーターを使ってとにかく色んな音をあちこちから出す機械を組んである(というので良いのでしょうか・・・雑駁で不安ですが・・・)など、想像した以上に面白い。いや、えーと、いまは誰もがそういう一見シンプルな、しかし複雑なことをしているのでしょうか・・・あまりそうは思えず、けっこうびっくりする(せっかく解説してもらったのに、驚いて「すごいですね」の連発か、「しゃもじデカいですね」しか言えず・・・いや、本当に凄いと思い、かつデカいことに唖然としていたのだけど)。


 とくに、びっくりしたのは、上にも書いた、普通に見ているとほとんど視界に入らない天井間際の装置がいくつもあること。確かにいわれると幾つもライトがあって、あまり気づかずびっくり。
 中でも驚いたのは、いくつか鳥籠のような物があって、なんとそこが風を受けると機械が作動し、それが他のライトにつながって、さらに他の作品を作動させることになる(らしい)という、あれこれ繋がっているシステムのキッカケ(の一つ?)になっているらしいことである。これは訊かないとたぶん絶対に分からなかった(個人的に最初みたとき、たしかに風や気象の影響で動いているとはおもったけれど、まさかそんな形で、複雑かつ詳細に相互連携までしているとは、全然想像だにしなかった)。


 というか、これはおそらく、そうした相互関連したシステムであることを、何らかの形で説明してもらった方が良いようにさえ思う。個人的に話が訊けたのはとても嬉しかったし、説明もとても親切で嬉しかったけれど、たぶん、これは初日に行けた人だけの特権で、それがあるとなしでは、印象自体が全然ちがってしまう。勿論、あまり詳細にシステムを示されると、行かなくても行った気になってしまうことがあるかもしれない(または感性の邪魔になってしまうこともあるかもしれない)けれど、それがないと逆に「?」が渦巻くだけで(あるいは、単に作品を適当に置いただけのコンセプチュアルなものとして)終わってしまうような気もする。それは、なんとなく勿体ないような気がした。


 他にも、とくに奥の方に照明が吊されていて点滅しているのだが、それにあわせて心音のような音が聞こえる(しかしスピーカーに接近すると聞こえなくなる・・・のは個人的なせいなのか・・・それ自体が気になるが)ものは、うーむ、誰のものか実は分からないが、とても洗練されていて気になりっぱなし。


 うーむ、とりあえずこのあたりで体力が尽きて、この日は退却。たぶん本当はもっと色んな見方があって、もっと一つ一つの作品に密着すると、全然ちがう感想になるように思う(校内の用品を多く使っている点とか)。とはいえ、気がつくと、ほとんど意識してなかったがおよそ1時間半ほどもその場にいた。立ち去るときには、最初の印象とはもう別のものになっていた。これで500円というのは、もう相当な大盤振る舞い(?使い方が間違っている?)である。
 ちなみに会場の方がどなたも親切。例によって(?)お手洗いもお借りして、とても親切に対応してもらう。

 といっても、たぶんまだようやく出発点に辿りついただけという気分。まあ、おそらくちょっと解釈しようとかアタマで理解しようとか思いすぎであるのかもしれない。翌日のプラス演奏バージョンは、なんでも自転車とか足湯とか、文字通り遊ぶようなことが展開したらしいし、そうやってのんびりした方が良いんだろうなと後から思ったり。まだまだ変化しそうだし、適当にもう一回行ってみようかなとおもう。