展示と感想

高円寺Gallery 45-8に大友良英+尾関幹人+マツ・グスタフソン「with records」展を見に行く。先と同じく初日。
高円寺はたまにしか降りないけれど、このたびは迷わずに到着。商店街の外れにある、小さなギャラリー。


一応宣伝を読んで行ったわけだけど、これはまったく文章では想像できず。しかし実物を見ると「なるほど〜」としか言えないものが、そこに。

切り絵、といっても、それまでの概念ではなかなか推し量れない。レコードが10枚くらい壁に掛かっていて、そのどれもに白い線のような紋様が走っている。といって、走っているのではなく、なんと、その白線みたいな模様自体が、切り絵なのだ。
白いビニール素材のようなものが、レコードの大きさに沿って複雑な図柄を切り抜かれていて、それがレコードにじかに貼り付けてある。どれも模様がちがい、ちょっと感嘆。一瞬、目で見たものが実物とは思えないような、精緻でクールな模様。


そして会場にはレコードプレイヤーが5台あって、観客はそこに自分の好きなレコードを置いて、針を落とす。
これがまた面白い。当然ながら針の動きは、貼り付けられたビニール(切り絵、というか、切り込み入り)に邪魔されて、その切り込みに沿って無茶苦茶な動きをみせる。どこに針を置くかで、同じレコードでも動きや向かう場所が異なり、ものによってはほとんど針がレコードを横断するくらい動く。その動きで、逆に切り絵をあらためて目の前で体験するみたいな感覚。
といっても、そうした無茶な動きばかりでなく、きちんと再生する場所もあり、そこからは獣の鳴き声のようなサックスが響いてくる。響いては針が動き、あちこち飛び回りながらどんどんサックスが唸る。で、しばらくすると、針の動く先がだいたい同じルートを辿るようになり、ある種のループのようになる。


面白い。面白いのでどんどん試す。最初に入ったときは他の方がやっているのを見ながらおっかなびっくりだったが、やり方がわかるととりあえず全部のレコードをかけたくなる。
で、やたら夢中になって楽しんでいたら、どうやら作家の方らしき人がいて(まったく気づかず)外から「5台でいっぺんにかけるのも面白いですよ」と言ってくれたので、途中から言われたとおりどんどん乗せてみる。その場にいた他のお客さんとアイコンタクト(もしくは何かの探り合い)をしながら、狭い室内を数人でウロウロしてレコードをターンテーブルに。
5台ぜんぶに乗せて満足。ついでに1台だけ外してみたり。レコードを入れ替えてみたり。針を落とす場所を変えてみたり。

楽しい。ある意味で、こちらは何もしていなくても(しているのはレコードを乗せたり外したり、針の位置を変えてみたりすることだけ)、音がどんどん変わる。それに切り絵にそって針が動くのも面白い。サックスがブギャグギャいっているのが、だんだんノイズのようになってきたり。楽しいのみならず興奮してくる。

一人で誰もいない時にずっとレコードを入れ替えて遊んでみたいなあとか思ったりもする一方で、良く知らない他のお客さんと、音とレコードをめぐって謎のコミュニケート。図らずも互いにアイコンタクトする瞬間とか、他の人が回している作品が面白そうだなあとか思ってチャンスをうかがっている変な緊張とか、そういう目線の会話もなかなか。


気づくと、いつのまにか何かが勝手に演奏されているみたいだ。

こうやってみんなで好き勝手に楽しんでいるうちに、出てくる音は何枚もが入り混じって、どんどん変わっている。一緒にレコードを取り替えたりしている人の、年齢も名前も知らないけれど、でも一緒に勝手にやっているうちに、出ている音は次々に変わっていく。針の動きも、厳密に辿れば一定のパターンがあるかもしれないけれど、ほとんどランダムのような動きを見せるので、一定には思えない。
 
どんどん客も入れ替わるから、その全部を聴くことの出きる人はいないかもしれないけど、演奏は終わりもなく続いていく。

もし「展示」というなら、そのあたりも含めて展示なんだろうなあとか思いながら(色んな意味で観客参加型)、といっても、さしあたってはブギャグギャいう音に夢中。レコードって良いなあとか。ほとんど遊んでいるだけのような気分。


そのあとCDを購入。これもかっこいい。楽しい。とにかくレコードを再生するという行為と、そこから出てくる音だけでかなり楽しい。あー楽しいなー、とずっとそればかり。
気づくと4時ちょっと前。一緒にいたもう一人のお客さん(僕の前にCDを買っていた)の方は、なんだか急いでいるみたいだった。後で思うと、秋葉原の展示の方でライブがあって、それに間に合うためだったのかもしれない。行かれたのだろうか。



まだ展示も企画も終わってないけど、中途の感想。

うーん、こうやっていると、久しぶりにアートが楽しいという感覚が甦ってくる。

あれこれ素人的な印象論的感想を綴ってるけど、一連のこの企画の最も大きいのは、どれもナイーブなくらいにただ楽しいということかもしれない。何の抵抗もなく、素朴にびっくりする。展示場所にびっくりしたり、変化にびっくりしたり、不可思議な作品にびっくりしたり、そして圧倒されたり、混乱させられたり、思わず笑ってしまったりする。緊張する。妄想してみる。首を捻ってみる。
あるいは、歩き回らされたり、立ちっぱなしでいることを強いられたり、耳を澄ましたり目を凝らしたり。上を見上げたり。

それがナイーブだからイコール良いというわけではないけれど、実はかなり大事なことだと思う(この意見自体がナイーブだけど、まあ素朴と言うには、僕の感想は少し屁理屈が多すぎるかもしれない)。


勿論、アートだから良いとか、大友良英だから良いとかいうわけではない。
というか、実はおそらく、大友良英の作品としてみると、この数ヶ月間を通して、なんだかこれまでとは全く違うところまで来ている。そのことに、驚くというか、驚く間もなくいつのまにか辿りついているというか、そんな風情だ。

ちょっと前までの、とりあえず「音楽」らしさがあったところからは、だいぶ違っている。といって、「アート」かというと、そんなわけでもなくて、既成の「アート」からはあちこちハミ出しているようなところもある。というか、むしろアートって何だっけ、と素朴に問いかけているようなところがあって、それはすぐそこにでも成立するんだよと言われているようでもある。


だから、よく分からないけどなんとなく思うのは、もしこれが大友良英という名前で括られるなら(実際、いまやっている二つの展示は、ある意味、大友良英が具体的に個人的に目立つ、という感じでは、そもそもない)、ひょっとすると、そうした「すぐそこにでも成立する」何か、ということなのかもしれない。

それはひょっとして即興とか、そうしたものと関わるものかとも思うけれども、お金や時間をかけるというのではなく、むしろ、その場にある何かや、使い古されて打ち捨てられた何かを使って、知人友人たちと一緒になって、変化を起こす、という点で、この一連の展示は一貫しているように思われる。

「何もないところから、アートがはじまる」という本があったけど、そういうなら「そこにあるものから、何かをはじめる」ということなのかもしれない。


そしてもしそうならば、ひょっとして、ここから問題は(単なるアートではなく)あらためて社会へと繋がっていくのかもしれない。
(この項、いつかに続く)