たまには/素敵に不安に2

たまには、すでに片足を突っ込んでいる別の世界のことも書いてみる。(といっても、そっちの世界の人向けではないので、いくつか伏せ字あり。)


この週末は、用事、体調不良、用事と重なって、かなり面白そうないくつものライブを逃がす。

その用事の一つが、「レキシ」と「物語(もしくはいわゆるポモ)」というテーマで有名なH・W氏来日シンポ@T洋(白山)。御年80で、初来日とのこと。
まったく年齢を感じさせない精力的な語りで、これまた所用で途中退出したけれど、もっといれれば良かった。


W氏は、その道の人には良く知られているが、翻訳はごく薄い冊子だけ、それもシンポジウムの際の原稿のようなものだけで、主著は未訳。ある意味で、ほとんど紹介されていないともいえる。

その主著(といっても30年以上前だが)の衝撃は、要するに「レキシ」もまた、ある種の語りのパターンがある、といったことだった。モノガタリの分類論というのは結構有名だけど、それをレキシの語り方に対して適用した。それによって、それまで客観的な分析に基づく「カガク」であると思われていた「レキシ」記述が、しかし他のモノガタリと同様にパターンから逃れられていない、ことを示した。

これはほとんど「レキシ」の客観性を揺るがすものと受け止められ、英米圏では大変な衝撃を与えた、といわれる。モノガタリの形式に注目する、ということで、まさに「レキシ」におけるポモであるとも言われた。

(なお確認しておけば、だからといって、それは自由に「レキシ」を書いて良いと言うことをおそらく意味しない。たまに「レキシ」って何してるんですかと言われるけど、最も基本的なことは、遺された「シ料」にもとづいて事実を確定することにある(と思う)。

それはときにシ料自体の発掘(新発見)も含むけれども、相当に膨大なシ料群に依拠しながら、そのどれをも裏切らない形で整合的に事実を確定し、あるいはそうなるように事件や諸状況を解釈/分析し、記述する。これは最低限のルールで、ここからハミ出るのは、ほぼ絶対的に許されない。

そのためには膨大なシ料を扱う必要があるし、また実際見てみると、これまで蓄積されてきた既成の理解とは違う自由な記述をすることは、実はそうそう簡単にできるものではないことが分かる。そういう拘束があらかじめあるため、「思いついたまま自由に書く」、というのは、そもそもできないというのに近い。
で、そうしたことを踏まえた上で、W氏はその語りのレベルで共通したレトリックがあるということを指摘した、と個人的には理解している。記述の点において、どう書くか、が問題とされたといいかえられるのかもしれない)


今回の企画はその主著を再読する、というような形で、大変興味深かった。たとえばW氏はレキシそれ自体を、近代社会のなかで見られたモダニスムの一つと捉えていて、諸々の変化を迫ってくる社会のなかで「カコ」をいかに把握するかという試みの一形態だと捉えているという。そこから、アートの文脈へ話が広がったりして、定義の一つとしてとても面白かった。

一方で壇上のコメンテーターを含めた議論は、氏の主著をあらためて位置づけようとする論議が多く、状況把握としても大変に面白い。

(ちなみにレキシでは現在、いわゆるニオイや感覚といったテーマを越えて、新しい動向に入っている。たとえば「キオク」を扱う研究とか、手紙や回想から見られるアイデンティティの揺らぎや戦略の研究が進んでいたり。どれも政治や共同体にかかわる重要な論点を提示している・・・のも、たぶんあまり知られていないだろうなあ)


で、わざわざこんなことを書いたのは、どうやら来年に、こうした問題を扱った研究書の翻訳が、立て続けに出るらしいからである。

おそらく、ようやく、ひょっとして、少し「レキシ」の風景が変わるかもしれない。そんな予感をえたので、ちょっと前フリ気味に書いてみた。


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 gnu『knowns』を聴く。とにかく一度でも実物をみたら手を出さずにはいられない代物。

 内容も、予想通りというか、予想を超えて長尺の曲がならぶ。確かに精密機械のような、グルーヴィーといわれるものの構造だけが抜き出されて、次から次に展開されている・・・のか?
構造だけ、というと、テクノや反復構造のようだが、そうではない。かといってファンキーというところで想像するような、諸々のイメージ喚起力にまみれているわけでもない。


 むしろ、なんというか、ギスギスの骨格でもなく、あるいは豊満な肉体美でもなく、まるでファンクの筋肉繊維だけが抜き出されて、動いているようだ。
 
 ひどく繊細なドラムスの束が、やたらと重いベースと切り詰められたキーボードの和音に乗って、複雑に動き続ける。声を担当しているかのようなサックスも、音と声と旋律のどれでもない咽の動きのようにも聞こえる。


 ・・・というのは、まあ言葉遊びにすぎないけれど、内容はとにかく濃い。とても一日二日では、まるで聴き切った感じにならない。なんというか、妥協していないというのはこういうことなのかもしれず。
 という以前に、ホームページに全曲解説があるのだが、これが確かに解説されているにもかかわらず、ある意味で、まったく解説になっていないとしか思われない。解説だけ読んでも、まあ実際の演奏が想像されることは、まずないだろう。一体なにがどうなって、こういう曲になっているのか、とにかく謎。
 実物もまた見たい。ちなみにジャケットも異常なほど格好いい(しかも実際に買ってみないとどれくらい格好いいか、ほとんど分からない)。これは買ってお得。


さらにちなみに、これは発売日当日に池袋タワレコで購入したけど、案の定というか予想どおりというか、「J-POP」の棚の「く」のところにあった。理解が間違ってなければ読み方は「ヌー」だと思うのだけれど、とはいえ、探す側もそれを先取りして、ジャズのコーナーからテクノ、Jポップの棚を順に「ぬ」「く」「お」(大蔵)と回って、発見。まあ、並べる側も、知らない客に対しては「く」に置いた方が良いような気もするし、そのへんもなんだか面白くなってしまう。


以前から謎の作品といえば、HOSEの2枚。いくつかの宇波拓インタビューなどを見ても、なかなか何をやろうとしているのか謎。けれど、時々引っぱり出しては聴いてみてしまう。しかし謎は深まるばかり。


当てずっぽうで書いてみると、たぶんやろうとしていることは、とにかく徹底的に「私」の部分というか、個性というか主体性を、極力排除することではないかと推量する。
そこで(戦略的に?)選ばれるのは、いま流通している中で最も無個性な音楽ジャンルであるところの、イージーリスニングやそれと同じ扱いを受けるちょっとした民族音楽になるだろう。ちなみに、どちらもちょっと無印良品ぽい(というか、無印では実際そういうCDを売っている)。
そこには、最初から「私」が入り込む余地がない、徹底的に無私の音楽。


とはいえ、狙いはそこにはない。むしろ真の狙いは、そうした無私の音楽を、徹底して個性を消して演奏する中で、しかしなおも浮かび上がってくる奇妙なとっかかりのようなものではないか。いってみれば、存在を抹消されてもなお残ってしまう「気配」のようなもの。
それは個性とかによらない、しかし意図しないが出てきてしまう身体性とか、筋肉の震えとか、呼吸のつかえとか、ほとんど生物学的な諸問題かもしれない。そのとき、叙情的とも言えそうなメロディのなかに、「人間性」といった枠組みからハミ出した不気味なものが漂い始める・・・


まあ、これが合っているのかは良く知らないけど、「いったい何をやろうとしているんですか」という質問はあまりにバカみたいで誰もしないのかもしれないけど、まあ訊いてみたいことではある(なんか訊いたら怒られそうだけど。なんで同じテイクの同じ曲が2つ入ってるんですか、とか。最初聴いたときは、頭が混乱したというか、混乱が加速したというか・・・意味は無いです、とか言われそうだけど)。
いずれにしても、ただ脱力系、みたいな括りではなさそうな部分が多すぎ。

しかし困るのは、そうした感じがありながらも、案外叙情的にも良いことである。というか、案外、歌っているところが良い。歌詞も良い。もっと歌付きの曲を聴きたい。
とかいうのも、ちょっと直球な感想過ぎて駄目かなあ・・・。