私が四つの鼓膜について知ることのない、二、三の事柄・・・?

すでに10日ほど経ってしまったけど、文化の日に、大友良英山川冬樹+梅田哲也+伊東篤宏+Sachiko M+毛利悠子+堀尾寛太「ensembles 09」。展示&クロージング・ライブ。
すごい人の数。とてもゆったり。あちこちで、何かが始まったり、場所を変えたり。
休符、というのがタイトルにあったけど、まさにそんな感じ。とりたてて変わっているわけではないし、作品も、どれも見慣れた学校のアイテムで作られたささやかなものばかり。けれど、いちど色々なものをクリアにできるような場所になっているみたいだった。非日常というほど激しくなく、地続きだけど、見慣れているようでいないような空間。


演奏が終わった後、いきなり冷える夜空の下、30分ほど会場をフラフラ歩く。二度目。あらためて観ると、一つ一つの作品も興味深い。


なかでも、Sachiko Mの作品をやっと把握して体験(追記:以下、この作品について)。やはりびびる。といっても、前とはだいぶ違う印象で。どれくらい感想があるのか分からないけど、色んな感想があった方がいいという理由だけで、ちょっとだけ書いてみる。


●とにかく凄いシンプルで洗練されている。二つのCDウォークマンが一緒に透明のジップロックみたいので梱包され、トレーに置かれているだけ。
ところが、これが耳を近づけると、梱包された中のイヤホンから、サイン波による演奏の再生が聞こえてくるのだ。とても変わっている。


●まず、イヤホンのありえない使用ぶりがおかしい。普通、イヤホンは、聴くときは耳の中に入れるものだが、それはここでは許されず、透明なビニール越しにそれを聴くことになる。というだけでなく、さらに二台が並んで一つのパックに入っているので、実は「イヤホン」といっても、一つでも二つでもなく、4つのイヤホンを、ビニール越しに聴いていることになる。

これはどう考えても変だ・・・全然音響学とか分からないけど、そもそもイヤホンから出た音はビニールパックのなかでどうにかなっているのかもしれない。反響?とかしているのかもしれない(あるいは遮断されていたり?)。その意味で、ちゃんと聴くことはできないのかもしれない。

あるいは、逆に言うと、ビニール越しに聞こえてくる音は、実はおそらくイヤホンを正常に使用したときには、そのように聴くことができないのだ。だって、4つのイヤホンを、2つしかない耳に突っ込むことは、まあ普通はできない。それは無理である。その意味でも、ちゃんと聴くことはできない?かもしれない。

ということは、ここで聞こえてくる音は、ビニールと4つのイヤホンという、二重の形で、元の音から隔てられていることになる・・・・・・逆にみれば、しかし、その4つのイヤホンから出ている音を、薄いビニール一枚の表面を通すことで、その音ははじめて成立している。ただウォークマンとビニールというありふれたものを使いながら、しかしそれを耳に入れないという条件で生まれる、とても奇妙なシステム・・・

●そういえば、この尋常でない音響システムは、先の個人名義での展示とも共通しているようでもある(4つのスピーカー、再生されるCDなど)。ただし、あちらは室内をめいっぱい使ったものだったけれど、これは屋外という条件の中で、それをビニールという小さな袋の中に圧縮してしまったもののようにも思えてきたり。
しかも、あそこでは客は作品の内部に取り込まれるのに対し、ここでは外へと漏れる音を聴くという、外側との関係になっている。(ちなみにサイン波も持続音ではない)。

その意味ではさらに、壁があるわけではない(ので、音は反響することがない?)という条件と、今までほとんど使っていなかったと思われるイヤホンの使用(これまではスピーカーと音質に注意が払われていたように思う)という点からして、ひょっとすると一見ささいでありながら、かなり冒険的な作品のようにも見えたり。


●そのうえで、別の角度からするとたいへん気になったのは、他の作品との関係で、他の作品と同じような風情に収まっているようにみえて、ちょっと違うように思ったところ。

他の作品は、なるほどちょっとずつ相互に関連していて、動いたり動かなかったりしている(休符だらけ?)のだけれど、この作品はどうやらずっと再生している。そもそも関連しておらず、ウォークマンとして独立している。

けれども、にもかかわらず、相当に身を屈めて耳を近づけない限り、ほとんど音は聞こえない。そして聞こえないがために、観客の側からしてみれば、それはやはり休符だらけの装置として機能しているようなのだ。観客は、そうやって作品ギリギリまで身を寄せたときだけこの作品の音を聴き、あとはほとんど休符としてしか受け止められない(もしくは、音がでているかすら分からない)。

その意味で、似たような風情でありながら、この作品は他の作品とは異質なものがある。ここだけ、「休符」は制作側の論理ではなく、観客側の論理で成り立っているといっていいかもしれない。

つまりここでは、沈黙とか休符とかの意味を、裏返しで身をもって体感させられるようだった。
いいかえれば、音が出ていても、聞こえない(と思って通り過ぎてしまう)ものが、いかに多くあるか、

あるいは、沈黙は、声をあげる側のみでなくて、聴く側の問題でもあるのではないか、
とでもいうべき問題を、唐突に実感させられる。これが正しい理解かは分からないけど、相当に手厳しいメッセージのようにも受け取る。
いわば沈黙が、音楽上のパラダイスでもパラダイムでもなく、聞き手が単に見過ごした(聞き逃した)せいでできるものとして突きつけられているようであり。それは他人事ではなく、もっと日常的な問題として、個人的に行っている事を指されているようにも思われて、ギクリとする。沈黙を、このように理解したことは初めてかもしれない。


●一方で、そんな感じでビニール越しにサイン波を聴いてみると、またとても独特。ビニールという薄い一枚の透明なものを介して成立しているという、ほんとに薄い透明な距離だけでできているようなところが、とても繊細かつ精密な印象。もちろん音自体も、もしかしてすでにほとんど壊れてしまったのかもしれないけれど、一層に微かに、繊細に聞こえるようだ。

それに、妙に低い位置にあるせいで、腰を折り曲げながら聴いていると、たいへんに微妙な位置で、姿勢と耳を固定されるみたい。実際、音量のせいなのか、音質のせいか、ビニール越しのせいなのか、「あれ、なんか聞こえる?」というあたりで止まることになる。それ以上近づこうとすると、作品に顔を打ちつけざるをえず、かといって(寒くて腰がきついので)起きあがると、ほとんど聞こえなくなる。(とはいえ、上と矛盾するけど、実は初日の時点で、作品の場所も定かでないまま、たまにゴールから多少の距離でも聞こえた気もする。けれど、これは自分でも定かでない。というか、本当に「あれ?どこかからサイン波が聞こえる?もしくは錯覚か?」という感じで、本当に錯覚かもしれない。自信がない)。

音を聴くというときに、集中したり意識しなかったり、ぼんやりしたりと色々なベクトルがありそうだけど、そのなかの大変微妙なところで音を感じている感覚。
しかも、どのイヤホンから音が出ているのか、見ただけではなかなか分からず、「あれ、なんか聞こえる?」あたりの「?」がふっと広がるよう。

で、その「あれ?なんか聞こえてくる」というあたりの体験が、なかなか面白い。日常的にも経験しているのかもしれないけど、だいたいはボンヤリして何も意識しないか、会話やテレビや映画などで音に集中しているか、そのあたりを行ったり来たりしているような気もする。

そうしたなかで、微かなサイン波は、曖昧なようでいて明瞭でもあるような、ちょっと特別な感覚を味わう。特殊な距離感。


・・・・・・と、もう文章が長すぎる。しかもなぜか一作品に限定してしまった。
この感想は間違っているかもしれない。しれないけど、そのまま書いてみたので、そのまま載せてみます。他にも、ほぼすべて著名のない規格品を使っている(ウォークマンとそのイヤホン、ビニール袋、あるいはサイン波自体も?)のに、どれも異常な使い方をすることで作品が成立している(と思われる)ことに驚く。
というか、今の時代に「ただしくない使い方をする」ということが「可能である」(らしい)こと自体にびっくり。しかも、ほとんど手を加えてはいないのだ・・・・・・実は、こうした手法は、他の諸々の作品にもあてはまる(そしてそれがたぶんかなり重要なコンセプトになっている)ようにも思うけれど、もう長いのでとりあえずこのへんで。
いや、作者の意図か定かでないけど、このように、その方法(イヤホン+梱包)、社会性(沈黙・・・聴き取り?)、美学(距離をともなう触知感覚?)があるようで、ほとほとびびる。お金があったら、買ってしまうくらい、シンプルでありながら、あまりに予想外の広がりを感じる作品。

(というか、いまだに照明&指向性スピーカー?の作品が誰のものか分からない・・・・・これもSachikoMのかと最初おもったが、違うようでもあり。誰かに聞けば良かったが、寒さでやや頭がマヒしていた・・・誰に訊けばいいのだろう。いや、誰かを特定する必要もないのか・・・)

あと演奏もはじめて間近でみて、本当に尋常でないスピードで繰り広げられていることに吃驚。夕焼けをバックに、錆びたサッカーゴールのなかでの演奏は、とてもクール。


うーん、こうやって一点ずつ近づいてみると、やっぱり印象が全然ちがう。たぶんまだ色んな見方があったと思う。展示が(経済的に)成功したのかはわからないけれど、一点としても全体としても、日常でありそうで、でもなかなかない、特別な感覚があちこちにある、とても不思議な場所の印象。目立った中心がないかわりに、いくつもの特別な感覚を観客が自分でみつけていく、という感じ。地図も案内図もなく、ちょっとずつ特別な。