ちょっと休憩の巻 だべり編

●これまであれこれと書いてきたけど、色々と諸事情があって、ちょっと1年かそれくらい、ここは休憩します。いや、半年かも、いや3ヶ月かも・・・まあ、とりあえず持続した興味に従って見聞して、それを書く、という作業はちょっと一息。年内はこれまで途中まで書いたメモみたいのを修正して載せます。
●ちょっと振り返ると、こういうことをし始めたキッカケは、単にライブ評をしたいだけだった。それがいつしかCDや本や展示まで拡大し・・・基本的には、でも「wire」という雑誌があって、ああいう言いたい放題なレビュー(それも多少長文の)って日本語でないなあ、とも思っていて、その真似をしてみようとしていた部分もあり。

●あとは、匿名で何かを書く、ということにも、何らかの可能性みたいのがあるかもしれないとか思ったりもしていた(今もしている)。それはネットやブログの時代の、何かの生産性に繋がるような気もするし。勿論、自分の文章が生産的かどうかは、別問題だけれども。
で、なんとなくこれ以上、書こうとすると、もう匿名性を維持できなくなりそうな気がして(実際に取材とかしたら面白そうだし)、まあ、このへんで休憩します。

あと、このページはカウンターもアクセス解析もできないので、一体どれくらいの人に読んでもらったのか、まったく分からない。けど、なんとなく一定度の人には読んでもらっていたような気がする。とくに、どちらかといえば受け手ではなく作り手の人に向けて書いてみようという意識が途中から出てきていた。いいかえれば、匿名の受け手と、作り手のコミュニケーションとしてネットを機能させてみようと思ったりしつつ。そうこうしているうちに、書く側でもある種のパターンみたいのが出来はじめていて、それこそが個性に繋がるのかもしれないけど、それはある意味で、面白くなくなるというか、当初の意図から逸脱するような感じでもある。それが、中断するもう一つの理由といえば、そうかもしれない(まあ実は単に別のことで忙しくなりそうだということだけだけど)。
 とはいえ、匿名であるというのは、逆に言えば陰惨な事態にもなりかねないわけで、そういう意味ではここで書いてしまった方々にはあらためてごめんなさい。乱文乱筆暴言放言長文無駄口など、ご容赦頂ければ有難い次第。


●で、基本的に匿名で書く、というときには、ほとんど貶すようなことは書いていなかった。書くエネルギーが出るものといえば何かヤバいもので、それは当然、もう誉めるしかない。たぶん批判しているのはこれまで、大友良英「幽閉者」のサントラ(の最後の部分)くらいだと思う(とはいえ、ライブでは空間的にアンサンブルが配置されていて音が潰し合わないようになっていたらしいことから振り返ると、「CDでは音を互いが潰し合っているように聞こえる」という批判は、あながち無理でもなかったと自分では思う)。

●その代わり、本についてはやたら厳しく、大谷能生や北里義之の著書にかなり批判的に書いた記憶があり。今年一年はほとんど一つの企画をずっと追っかけていたけど、そこではそんな自分の批判を踏まえて、自分でもやってみた。見ることと聞くことを分離する、その際、視覚的な比喩はなるべく使わない、あまり歴史的文脈に即座に置かない、日本という風土に閉じ込めない、とか。
あと、とくに一つだけ気を付けていたのは、なるべく丁寧に記述する、ということ。あまり拙速に概念を出したり、「集団」とか「個性」とかに括らず、事態の流れを事態として記述すること。それは必然的に長文になるけれども、結論を先取りしたり、概念で括ったりすると、結局その分、驚きは失われてしまうし、驚かなかった点も失われてしまう。
何が言いたいかというと、もっとみんなどんどん書くべきだと思う。たしかに長文は読みにくいかもしれないけれど、逆に長文はプロだけの仕事で、素人は1行か2行のみで、というのは、何か勿体ない気がする。SNSとかでは展開しているのかもしれないけど、無意味に貶さない、情感だけの吐露はしない、くらいの決まり事をすれば、たぶんどこかで面白い議論になったりするんじゃないかと、いまでも思う。




●では、最後なので我が儘なレポートとして、この2、3年に見たものの感想をまとめてみる。最後の長文(以下約6000字。最後まで分からなかったのは、この量が長いかどうかだった)。こういう適当な文章が、昔は紙媒体としてあったように思うけど、いまは例えば書いてみても、どこに投稿して良いのかも分からない。という動機で、ここに書いてみる。似たような議論があったら(ありそうな予感)教えてくださ〜い。
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*-0
 端的にいえば、たまたま立ち合ったそれは、ある種の新たな始まりであるように思う。そこでは、一般的な議論ではもう壊れてしまったもの、すっかり破壊されたり解けたりしまったとされているものが、形を変えながら、新たな方向性を見出しつつある、それも空論ではなく、実際に行われているという光景が繰り広げられていて、たぶん見たのはその始まりだった。

それは、「集団」と「私」に関わるように思われる。集団と私。これらはどちらも、おそらく存在すること自体がきわめて困難とされているものだろう。「集団」については統一的な理念はとっくに崩壊したし、「私」についても多方向に分裂して失われつつあるだろうし、ともに足場ごと崩落して、見出せないとされている。

しかし実際に目にしたのは、その二つが、決して復古的に理念や主体を持ち出すこともなく、新たに生成しつつある事態というべきものだ。


*-1(1)
まず集団については、もっとも最近みた「アンサンブルズ」に影響されている。そこではいくつもの企画といくつも演奏があったけれど、ひとつ一貫して見たように思うのは、それが集団と組織をめぐる試行だったことである。そのときの構成員は、様々で、ジャンルや演奏方法や、場合によっては人ではなくモノの場合さえある。それらは方向性も、手法も、意図もバラバラだ。
そのうえで、しかしそれらが、一時的にせよ同じ場所に立つこと、立った上で何事かをなすこと、つまりは集団と組織はいかにして可能であるのかという、そうした問いを追及するものだったように思われる。
そのとき、統一的な理念や土台は、しかし必要とされない。何かをなすとき、かつてはその根底にある思想の共有に焦点があったかもしれないが、ここではそうしたことは取られていないようだった。
むしろ、そこでの核は思想ではなく、コア・アノードから続くいわば実践の点におけるルールの共有であったように思う。そのルールさえ共有すれば、思想も方法論もなくとも組織は成立し得るし、場合によってはアンサンブルさえ生まれる。
そうしたある種のルールのみによる集団の組織(ある局面においては、「完全即興」といういわばアンチ・ルールさえもが、一つのルールとして機能していたように思う)の実践。バラバラであるままで、思想も方法も食い違えさえするのに共存できること。

  • 1(2)

そして、驚くべきは、それが単なる理念ではなく、むしろ実践として行われていることであり、さらに、多様な結果を導き出していたことだろう。いいかえれば、単なるルールの適用ではなく、状況や場面に応じた変化が、あるいは同じ状況においても、驚くべき多様さを示していた。たとえば、録音された「コア・アノード」においてもそれは同様で、実際そこで重要なのはおそらく、同じ方法論で同様の騒音が鳴っていたことではなく、録音された場所やメンバーによって、これほど違うのかと言うくらいの差があることだと思う。

もっといえば、そこでは予期せぬ物語さえ生まれていた。普通は出会うことのない物語を持った人々が、そのままで交差するとき、摩擦と反応とすれ違いと、そのいずれもが立ち現れる。おそらくそこで決定的であるのは、それが常に即興として進められていたことだろう。再び言い換えれば、つまり単なるルールを設定して計算を走らせるというだけではない。その過程で生じる相互干渉や、アクシデントが発生する。その偶発性を、受け手が読み取ること。その偶発性と、瞬間の解釈において、この一連の試みは賭けられているように思われた。


-1(3)
もちろん、こうした試みでは、他方で様々な工夫がこらされている。別の文脈においてみれば、これらの下地に、90年代から続けられてきた、多様な実験があるだろう。そこでは、いわば言語論的な実験というべき、沈黙から微細音、爆音や機械的なフィードバックまで含められる多様な音自体が試行錯誤されていた。
そのうえで、いま起きているのは、そうした実験を継続しながら、さらにそれを緩やかに組織し組み直すような、そうしたうねりであるように思う。

だからアンサンブルズが、いま都市に出ていくのは、おそらくそうした観点からも捉えられるべきかもしれない。それは、単に屋外に出る、というだけではなく、そのことによって、都市における音をめぐる状況に、緩やかに入り込もうとしているのではないか。
いいかえれば、それは音をめぐる政治さえも浮き上がらせることかもしれない。実際、私たちの生活で音はなんとも管理されている。空港における音、高速列車の立てる音、工場の、工事の音。携帯電話やその会話をめぐる「マナー」。私たちの個室と、隣人の会話との関係、もしくは遮断。排泄をめぐる身体が出す音の密封。そして会話、演説、足音、走行音、掛け声、喧嘩、すすり泣きや咽び泣き。風と雨と太陽の音。
それらは個々人が自主的に聴覚をシャットアウトするときもあれば、すでに社会的あるいは政治的に管理されていることもあるかもしれない。そうしたなかで、ひょっとして提示されていた休符とは、それらから遠ざかりながら別の空間を作ることであったかもしれない。そしていまや、町中へと繰り出そうとしている。


*-2
他方の「わたし」については、すでに何度も書いてみたように、サイン波のインスタレーションから作曲作品に触れつつ得た感想であり、しかも色々な方向性があるように思う。そのうえで、あえて共通しているところをあげれば、それは一度極限まで削り取った主体を、そのままで、新たに差し出そうとするもののようだったことだろう。

そこでは、かつてあったような太く充実したアイデンティティを目指しているわけではない。かつてあった堅固な実存としての「わたし」は、すでに壊れ、欠損や多重人格、解離がごく一般的なキーワードにさえなっているこの状況において、見られるのはそこで実存へと回帰するのではない。むしろ、その「わたし」の抜け殻や、意図せざる痕跡にこそ焦点を当てて、「わたし」を組織すること、ということができるかもしれない。

そしてそのとき、まるでこれまでの「わたし」を徹底的に排除するかのように、慎重なまでの厳密さが基本とされる。ただ特定の周波数のみであったり、極端なまでに厳密に作曲された譜面のリアライズであったり、もはや主体をこれでもかと削り取る。そして、そのうえでようやく残された何かが、ゆっくりと広がってくるのだ。

その結果、出てくるものは、複数の音波が引き起こす空気の振動であったり、いささかも個性的であろうとしないはずの行為に残される人間の痕跡などである。それは存在を抹消した後になお残された、何か。物理現象にかぎりなく類似しながら、しかしそれを生成させた誰かの手触りを残している「わたし」の最後の欠片。そうした音波や反射、奇妙な痕跡こそが、いまや言葉も持たぬままに空間を埋め尽くしていく。

これは、いわゆる主体ではもはやないかもしれない。むしろ、実存的に思考し決断する主体の手前で、あるいはそこからはみ出てしまうその奥で、非人称化された存在として、響きが渦を巻く。いいかえれば、それは分かり易い「人間」という型ではもはやない。実際、ここでそれらの表現の基底となっているのは音そのものであり、あるいは空間に広がっている振動そのもの、もしくは振動する空気そのものである。

こうした人の形におさまらない「わたし」の問題は、他のジャンルでも、重要なテーマとなっているだろう(例えばSFなどを念頭に置いている)。そこではデータ化された情報として再構成される「わたし」や、AIとして構築された電子情報としての「わたし」であったり、あるいは文字列そのものとしての「わたし」であったりする。

ただし、音響/演奏作品においては、そうしたある種、人間外へと飛び出してしまった存在に、驚く間もなく、いきなり直面させられる。思考も意志も剥ぎ取られ、痕跡や波形としてのみ存在する「わたし」は、旧来の意味での「私」ではないだろうし、むしろおぞましいものとさえ映るかもしれない。ただし一貫していたのは、その異形の「わたし」を、誰も否定的な形で捉えていなかったことのように思う。それがいかなる肯定かは、未知のままで。


*-3-1
このようにふりかえると、あらためてこれらに共通しているのは、どれもある種の厳密なルールに基づいていると言うことかもしれない。ただし、ここでいうルールというのは、単なる取り決めと言うよりも、ほとんど「指定」に近いようだ。そうした指定を設定することが、そしてそれを厳密に守ることが、しかしそこからはみ出てしまう何か、あるいは行われる状況や参加する人々によって生まれる多様さが生まれる、その条件となる。

そして、あえて踏みだしてみれば、ここでいう「指定」というのは、いわゆる「作曲」的な要素まで含まれるように思われる。たとえば10分間で数回の音を出すという指定や、極端なまでに厳密に指示された音符の列。ひょっとしてその音符は、連続して聴けば、ある種の「メロディ」になるかもしれない。しかし、いま述べているような演奏・作品にとっては、むしろ音符自体が、単に「ここで、この強さで、この音程をだすこと」という指定と捉えられているのではないか。それがメロディとして聞こえたとしても、それはある種の錯覚である、というような。

たとえば、ONJOでの一部の作品には、極端な持続音とメロディが繋がった奇怪な曲がいくつかあるけれど、それらでは、いま述べたような作曲と指定がほとんど等価にあることを示しているように思う。そして想像するに、HOSEやgnuという即興演奏家による作曲演奏形態は、こうした点を追及しているように思われる。そこでは旋律は、単に美しいメロディという以上の何かを生み出すための、あくまで手がかりとしてあるようだ。

いいかれば、ほとんど「作曲」という概念自体の改変が起きているのではないか。そしてそれが、あらたな組織に向かうための手法たりえているのではないか。


*-3-2
これを、たとえばアルゴリズム的、と呼ぶことも可能かもしれない。ある種のプログラムを置いた上で、演奏はいわば計算として、走らされる。そのプログラムが「指示」であっても、「音符の連なり」であっても、プログラムとしては同じである。

ただし即座につけくわえれば、それはアルゴリズム「のような」ものでもなく、それに「似ている」ものでもない。むしろ、現象としてはあまりにも目眩を催す不気味さに満ちていたり、時として錯乱的なものが生まれてくるような、そんな光景である。実際、それを目にした者は、そこにルールがあるどころか、混沌とした錯乱か、すべてが崩壊した後のおぞましい残骸がひたすらに回帰しているところを見出すだろう。

いいかえれば、そこではプログラムを通すこと自体が主眼ではなく、その計算過程にこそ焦点がある。そしてその過程は、与えられた条件やパラメータにより、同じプログラムであってさえ、全く異なるものとして現れてくるだろう。(実際、こうした演奏ではその参加者から楽器まで、その都度おどろくような手配がなされているのは見たことのある人は知っているし、PAの排除さえもなされる環境への気配りは、まるでプログラム以外の拘束をすべて排除しようとしているようでもある)。あるいは、ここではその環境さえもパラメータとして含まれている。音は密室で鳴らされるのではない。その空間が立てている音、さらには戸外の自然環境さえもが、変数として組み込まれている。

ときにそれは悲劇的な物語であり、ときに科学実験のようであり、得体の知れないノイズであり、音としては何も聞こえない沈黙でさえある。それがいかなる過程を生み出すかは、おそらく演奏している人々にさえもやってみなければ分からない。
いうならば、そうした未知の計算に踏み出そうとしているようだ。


*-3-3
角度を変えれば、それによって排除されるのは全体の統一的な支配である。ここでは、全体を支配する剥き出しの超越的な主体は存在しない。あるいは、それを正しく聞き取りうる統一的な聞き手さえ存在しない。過程そのものの一部となる構成員がいるだけあり、他方で、目の前で展開する過程にたいして、その一部を切り取って判断し、解釈するのは聞き手自身である。(あるいは、とはいえおそらく、一連の過程についての評価というのはありうるべきだろうし、そうした評価軸や論点というのが、(聞き手にとっての)今後の問題かもしれない)。

あるいは、あえて状況論的に言えば、ストーリーからルールへ、という変化といえば言えるかもしれない。おそらく90年代の音響的実験では、その標的の一つは起承転結という「物語」にあったといえよう。そこでは、ズタズタに破砕された物語、断片としての物語、あるいは非物語が志向されていたように思うけれども、いまある事態は、そうした物語の廃墟の中で、音を編成する原理として物語に回帰するのではなく、ルールによって、音が編成される状況そのものを作りだしているようでもある。

ただし、繰り返し強調しておけば、重要なのはルールの共有ではない。今やその段階を踏まえて、多様な表現が可能となりつつあることである。もしアートと言い、表現というなら、そうした回収しきれない混沌が出現していることにこそ、表現として成立しているというべきではないか。
もしアクチュアルというなら(そう、おそらくアルゴリズムというイメージ自体は、いまとてもアクチュアルであるかもしれない)、しかしそれが即座に要素の組み合わせに過ぎないといった諦念に囚われず、むしろ新たな混沌を切り開き招き寄せていることにこそ、アクチュアリティの中心があるように思う。
まるで、そこでこそ何かが生成されているのであり、唐突に言えば、あたかもデミウルゴスに立ち合っているようだ。設計図があっても常に何かを間違ってつけ加えてしまう奇怪な造物主。


だから最後に、造語によって名指すことが許されるならば、こうしたフリーフォームの形態を、アルゴリズミック・インプロヴィゼーション、あるいはプログラムを設定した上でパラメータとして組織を編成し、環境音をも組み込んでカオスを発生させてゆく状況から、パラメトリック・ノイズと呼ぶことができるかもしれない。ただしいずれにも共通しているのはある種のアナーキズムのようでもある。このアナーキズムは、集団や心に中核的な政府を打ち立てるものではない。そうではなく、むしろいたるところで、地域も場所も問うこともなく組織され、あるいは大地を離れて空中にその姿を響かせるだろう。そして、それは誰にも所属することはないままに霧散していく。

そのうえで、それが優しいものなのか、残酷なものなのか、おぞましいものなのか、不気味なものなのかはよく分からない。唯一残念だったのは飴屋法水の劇をみられなかったことで、いくつかの観劇文を見ると、それは、こうした複雑に構築されたアルゴリズムの中で、計算過程として進めた結果、その一人が辿りついてしまう自死(とその孤独)までを視野に入れた、いわば残酷さに焦点を当てているようにも思えて、それは心残り。


とはいえ、こうした名指しは、しかし即座にここからはみ出すものを捨象することになるだろうし、それ自体にそれほどの意味もない。もちろん、ここで言及した人々が、ここに記したような思考をしているという保証もなければ、さらには見ていないところで、さらなる実験が進んでいることは大いにあり得る。だから、このあたりで、この取り留めもない記述も止めるべきなのだろう。