ちょっと休憩の巻 羅列編

●続いて、最後なので適当な放言一覧。


●と言う前に、昨日、思わずもensembles09余韻ギグ@広尾。
なんだかんだで、どうやらSachiko Mの単なるファンになっている自分を発見し、3時半から2時間半くらい、演奏に釘付け。やはりヤバいくらいに複雑。息ができないほど精妙。とくに、奏者が一度退席した後、タバコが吸いたくなって喫煙していると、それまで屋外でギターをつま弾いていた大友良英の狂気のようなフィードバックが始まり、これはマズい、何か起きると部屋に戻るや、すでに奏者は席に戻っていて、ガラス窓から漏れる炸裂音を背景に、文字通り耳をつんざく壮絶な演奏が展開。耳にダメージを感じるほどの圧力にほとんど悶絶しそうになり(しかもたぶん純粋な客はぼくしかいなかった)、壁に掛かった作品をみるフリをしてウロウロ歩き回るや、爆音がめくるめく変化をきたして響きのヤバさが増してしまい、もう阿鼻叫喚の事態に。

あと印象深いのは、それから関係者の方や、関係者の関係者の方などが顔を見せては退出された(最後は数人のお客さんと一緒に鑑賞)のだけれど、その爆音並みの演奏の最中に、どうやら関係者の関係者らしきご婦人が登場され、いちど奏者を凝視したのち、ぼくを振り向き一言「いったい何をしているんですか?」と問い。
数瞬かんがえて、怒濤の音のなか「たぶん演奏されているんだと思いますけれど」と答えたが、この答えが正しかったか、おもわず反省。というより、「これはなにをしているんですか?」と口にしたご婦人の表情は、まるで盗人の仕事を目撃した人が、犯人に対して思わず「いったい何をしているんですか?」と言ってしまうような、心身の危機的状況に直面したさいの切迫感が確認されたように思う。それに対して「盗みを働いているのだと思いますよ」という答えなど求められているはずもなく、思わずも発せられただろうその問いを生み出した演奏に、こんな演奏はやはりヤバすぎるのだと改めておもった。

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●別に放言ではないけど、olive oilという福岡の人の3rd album「space in space」が大変に凄いことに。これはもうたぶん今年のベスト。ヒップホップのみでなく、リズム音楽として皆買うべきだとおもう。もうとにかく驚愕のレベル。

言葉にするのが難しいけど、今のインスト・ヒップホップは、まるで地下の密室で思い切り好き勝手にやり散らかしていたジャズ最初期のような様相にありそうなのだ。リズム、メロディ、インプロ・・・そうしたものが、沸騰している。

なかでもこの人は、どのCDも凄いけど、とにかくみんな聴いてみろ、と言いたくなる久しぶりのCD。よく分からないけど、激しいフリージャズからグリッチノイズまでがお好み焼きのように掻き混ぜられて、いつのまにか一皿の料理として饗されているようだ。

リリカルで繊細でカオティックなものにメロメロになってしまったことのある人は即座に聴くべきだと思う・・・とにかく聴け!


●その文脈で言うと、雑誌『remix』はちゃんと季刊として復活して欲しい。そしてこうした日本に限らず、エクスペリメンタルなヒップホップの特集をして欲しい。乞う。
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佐々木敦の「ユリイカ」での連載は、ちょっと今のところよく分からない。即興についての長いパートは、いつのまにか作曲を扱っていて、即興と作曲が論理的にどう繋がっているのか判然としない。とはいえ、これから新展開らしいので期待大きい。



ジム・オルークの新譜。美しい。いつもながら、ある意味で美しすぎる。正直、かなり沢山CDを持っているが、どうしてこれほどまでに完成度を上げなければならないのか、どうしてこれほど洗練しなければならないのか。いつも唸りながら何度も聞き返してしまう。リミックス作品にいたっては、どれも対象をリミックスすることで殺そうとしているようにさえ感じる。あるいは、新しいにも関わらず、古典の趣があり、つまりは、いつも、どうにも悩ましいのだった。こういう感想って、みんなはもたないのだろうか。



●基本的にtzadikのファンですが、来日して欲しかった音楽家は、Raz Mesinai。とか書いていると実は来ていたりする可能性もあるけど、これまた日本語では全然評価がみられず・・・。でも、どのCDもグチャグチャな思想と妄想をサンプリングとリズムで実体化していて、やたらでない。いかにも「アーティスト」風なところもありそうだけど、そういう人も最近少ないし。

とくにBadawiというプロジェクトの最近のCDに入っていた、バダウィ・カルテット(チェロのOking Leeとか)が、いきなりドルフィーが甦ったみたいで、この編成で見たい(メシナイは変なフルートみたいのを吹きまくり)。というか、BadawiのCDは、アルス・エレクトロニカを貰っているらしいのに、全然CD屋で見かけないのは何故なんだ・・・



●ちなみにワタクシは76年生まれで「76年の世代」ですが、その世代の人にお願いがあって、ぜひ新しいノイズ作品を作って欲しい。それも、できればMP3の音質に合わせた、パソコンでの再生を主眼にしたもの。
MP3は音質に不満が、流通に批判があるけど、逆にそこで何かやるのも良いというか、なんか面白い気がする。というか、そこにまだ可能性がある気がするんですが、どうでしょう。



●これまで散々書かせていただいてきたけど、大友良英作品では、中でも実は、マルタン・テトローとのデュオがとても好き。とはいえ実は(小さな箱入り3枚組はもっているけど)ライブ盤は4枚目しかもっていない・・・・・・本編3枚はもう売ってなさそうだけど。日本盤とか出ないのだろうか・・・小さな箱入り3枚組も凄いし、ライブの4枚目だけでも凄いアイデア満載の傑作だとおもう。求む再発。

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●これまであれこれ書いてきたけど、実は全く触れていないのは菊地成孔の諸々の活動で、といってもその著作もCDもかなり沢山持っていて、しかしどれも感想を書くのに戸惑う。今さら言ってもアレだけど、まだどこかに残っているだろう「東大掲示板」に書き込んだことさえあり、というか授業にモグったことさえあって、かなり魅惑されつつ、しかし発言も作品もどれも何処か信じがたい不安定さがあり、掴むそばから消えてしまうような手応えのなさみたいのを、いつも感じる。しかもCDにいたっては、ジャズといいながら、どうもほとんどジャズではないものを「ジャズ」と呼ぶことで/そうしたグループ編成/そうしたジャケットをすることで、マジックをかけようとしている節さえあるようだ。しかも、言説においては、歴史について云々しながら、そこから演繹的に導かれるはずの現在の自身の演奏と繋がっているようで繋がっていないような飛躍があるような無いような、要するに一言で言えば、いかがわしいところが多々あって、しかしそのいかがわしさこそがまた「ジャズ」の魅力と言われればそうかもしれないと、トートロジーに陥ってしまう。あげく、そのトートロジーがもたらす憂鬱めいたものを官能とさえ言い換えられてしまうと、もうどこが出発点だったのか分からぬが官能さえあるならよいではないか、ねえ?と、際限のないトートロジーのなかで陶然として、もしくは爆笑してしまいさえするのだから、書くことなど、もはやないに等しい。


これが批判なのかどうかさえもう分からないこうした哄笑と自失のなかで、さらに何かあるとすれば、おそらくそれはその歌声であって、今までどんな評価なのかまったく分からないにも関わらず、歌ばかりのアルバムというのを、それもフルアルバムをいつか作って欲しいとおもう。興奮するでも泣き喚くでもなく、ただ詠嘆と現実(と虚構)が並べられた「南米のエリザベス・テーラーの歌」は、知らぬ間に心の隙間に入り込んでいるし、TVでみた松田聖子のカバーにも漂っていた冷めた情感も忘れることができず、声というのが言語情報と旋律以外に何物かを運んでくる特異な要素を含んでいることをあらためて感じさせられる。とはいえ、それがジャズなのかと言われれば再び混乱に陥らずにはいられず、そのようにして結局はふたたび、際限のないループに引きずり込まれていくのだろうけれども。