装置・レコード・創発

えー、適当に復活してみる。もう2月が終わり、とはいえ2ヶ月しか休んでいないのはどうなのか、とか自分で思いながら、やっぱりオリンピックは面白いなー。ショートトラックスノーボード・クロス(4人で同時に起伏のあるコースを走って、転倒多発)とか、良く知らなかった競技がやたら面白かった。ので、BSとか見られないけど、本当はもっと色んな競技が見たかったなー。なんかライフル撃つのとか、アイスホッケーとか。とか。


 うーむ、近況を書こうと思ったのだが、なぜかできず。ということで。
 いやー、とはいえ個人的に凄かったのはやはりコレ。ensembles09のレビュー。
http://www.web-cri.com/review/misc_ensembles09_v01.htm
 うおー、こんなになっていたのかー、という、今になって遂に判明するタネ明かしのよう。とてもコンパクトで、勉強になります。とはいえ、全体的に好評価で、なんというか屁理屈はさておき、面白かったのは間違いなかったんだーと、とりあえず確認。梅田さん(ちなみに以下、今回は皆さんに「さん付け」です)の個展を見そびれたのは勿体なかったなーと、ちょっとかなり後悔。

 いやー、色々勉強になったんですが、とはいえ、野々村さん(さん付けですみません。未だにネット上の敬称がわからないので)のレビューで一つだけ異論があって、以下、それについて書いてみます。




 それは、「with records」について。
 これはレビューではだいぶ批判されているけれど、しかし案外に面白かった点があったと思う。それは単に誉めるのではなく、むしろ展覧会全体との関連で、もっと積極的に位置づけられるように思われたからだ。あるいは、興味深い点を示していたとも思われる。


 では、その論点は何か。
 論点は一つである。というのも、レビューでは、without recordsと対称的であるとしながらも、内容としては、レコードと切り絵の個々のパワーの方が、企画に勝っていた、という感じになっている。けれど、そこで挙げられている「加工」「再生」「商品化」のプロセスの間に、実は、展示としてもうひとつの局面があるように思われたからだ。

 それは、展示会場を見渡したとき、全体に立ち上がっている轟音である。もう少し細かくいうと、withにはまずレビューで示されたように、切り絵の張られたレコードの陳列と、その観客による体験という大きな二つの側面がある。
 ただし、それらに加えてwithにおいては、それらのレコードが複数のターンテーブルで(ランダムに)同時に再生され、それによってギャラリー内に複雑な音像が発生するという局面があるように思う。実際、ギャラリー内に入ったとき、そこでは5台のターンテーブルから巨大なノイズめいた轟音が立ち上っていたのではないだろうか。この側面について、レビューは何も触れていない。そして、しかし展示としてみるならば、むしろこの局面こそが重要であるように思われる。


 なぜ重要か。ひとつには、この局面が、一連の企画展の共通点である「音」による展示という性格を示しているからだ。一番最初のwithout〜から最後の09本展まで、どれも置かれた作品は音を出すものであり、その音を含めて展示とされる。こうした共通テーマからして、with〜でもそれを見出すことが出来るし、その局面が重要ではないか。

 もう一つは、この局面においてこそ、without recordsとの対称がみてとれるからである。そこには共通点と相違点がある。
 まず共通点は、複数のターンテーブルの作動である。実際、without recordsはかなり複雑な様相を呈しているが、大きく見れば要するに、沢山のターンテーブルが同時に/ランダムに作動する、オン・オフするというものであり、その点において、with recordsでも同じである。つまり、うえにあげた局面に注目すれば同様の形式として、複数のターンテーブルのランダムな作動をみてとることができるだろう。
 一方で、違いとしては、ひとつには、withoutがコンピュータ(による計算)によっているのに対し、withは人の手によって(というか観客の手によって)行われるという点がそれにあたる。くわえて、そのターンテーブルの上には文字通りレコードが載っている(with records)。つまり、展示としてwithout/withを対称的とするなら、withでは「加工」と「再生」の次にもう一つ、設置された複数のターンテーブルが、観客によってランダムに動かされるという局面があり、そこにおいてこそ対称的である。あるいは、実際に「展示」されていたのは、この局面なのではないかと言ってもよいかもしれない(たとえば「商品化」は、それに先立ち、すでに展示初日からおこなわれている)。


 この点に注目すると、たとえば文脈も変わって見える。野々村さんはwithを「摩滅する記憶」の文脈に置いているけれど、むしろ展示を、観客の手によって複数の装置がオン/オフされるという点からみてみれば、それと類似した他の作品や企画に連なるように見える。たとえばオフサイトでの「ポータブル・オーケストラ・家電編」や、あるいは最小限のルールで限定的な音をだす「アノード」「コア・アノード」のような一連の作品/企画に通じるように思う。これらはいずれも、ごく最小限のルールによって、ランダムかつ並列的な音の生成の場をつくるものであり、むしろwithは、そうした企画/作品の系列の延長にあるのではないか。


 では、その文脈に置いてみるとどうなるのか。というか、そもそもwithでは一体なにが起きていたのか。
 とりあえず注目されるのは、ルールの有無と、観客と展示全体の関係である。ここで論点だけ挙げてみれば、without/withのちがいは何なのか、を軸として、たとえば、どうしてwithoutと同じ事がwithでもできるのか。
 とくに、実際にターンテーブルを動かすのは観客だが、しかし観客は全体像のことなど(おそらく全く)考えていない。というか、そもそもルールなど与えられていない。そのことと、(もし存在するならば)複数並列に再生することで生まれる全体は、関係があるのかないのか、もしくは、どのような関係が成立しているのか・・・
 実際、観客はおそらく壁のレコード(作品)と、目の前のターンテーブルで頭が一杯である。あるいは、その次にCDを買うべきか悩んでいるか、次にどのレコードを手に取るかとか、いずれにしても、自分のことしか考えていないとおもう(個人的にはそうでした)。そこに、そもそもルールなどあるのか?


 議論をすっ飛ばすと、おそらくwithでは、明示されていないが、観客に課されているルールがある。

 それはつまり「ターンテーブルにレコードを載せること」もしくは「ターンテーブルに載せたレコードを取り替えること」である。それはおそらく企画者によって(おそらく半ば以上意図的に)最初から状況に仕込まれている。端的にいえば、会場内には10枚のレコードに対して、実は5台のターンテーブルしかなく、必ず余りがあるのだ。そのため、おそらく多くの観客は壁に掛かったままのレコードを手に取り、いま回っているレコードと取り替える/とりかえてみたくなる。それも、かなり頻繁に。
 たぶん、観客の多くがギャラリーを眺めているだけでは耐えきれず、我も我もとレコードを取っては取り替えたに違いない。しかしそれは、そもそも最初から10台のターンテーブルがあったら、ありえない(もしくはレコードが5枚だけでも)。しかも、すでに在室している他の観客がレコードを回している日には、自分も同じ事をしたくなる/ならざるをえない。

 これは明示されてはいないが、観客はレコードの交換を、なかば強要されているといっていい。これが、観客に課された最小限のルールである、もしくは、ルールとして機能するように状況が誘導している。ポータブル・オーケストラではあった楽譜(のようなもの)が、ここにはもはや要らない。極度に最小限のルールである。(だから、野々村さんの「メディアを有効活用していない」という批判も違うように思う。たとえばこれはI-tunesなどデジタルメディアでは無理な、いってみれば「ターンテーブルとレコード」という再生装置の形式的な特徴をつかったルールのように思われる)。


 実際、この示されていないルールは、同時に全体を作り上げている。つまり、観客は仕込まれた条件によってレコードを次々に替えていき、それとともにターンテーブルをオン/オフする。それだけで、すでにwithoutと同じ様相を呈するが、ここではさらに、レコードに施された切り絵がその再生を混乱させており、ランダムさを追加する。レコードはそれらによって断片化され、5台のターンテーブルそれぞれは、決して同じ音を同時に出さない。(むしろ「加工」は、このために行われたようでさえある)。かくして会場内には、それらの音が混じり合い、溶け合って、ノイズめいた音響の塊が揺らめき、蠢いているように常に立ち上がってくる。
 (追加すれば、ここでは録音されたサックス演奏の抽象度合い、というかほとんどノイズのような音も、おそらく一役買っている。もし中身がもっとメロディをもっていたら、観客はそのカットアップが気になって、場合によっては「最小限のルール」を踏み外して他の観客と「共演」しかねない。観客は、目の前のレコードを抽象的なノイズのランダムな再生に過ぎないと理解し、与えられた「ルール」だけを果たすように御されているようでさえある。だからここで、おそらく企画者は相当に狡猾である。)。


ただし、そのうえでここで問題なのは観客と全体の関係である。観客に対するルールがあったとしても、ひょっとすれば、というかおそらく、観客はその全体の響きはほとんど気にもしていない。にもかかわらず、全体から見れば、彼らはレコードを取り替えて再生させることで、かなり激しく揺れ動くノイズを作りだしている。これは一見奇妙かもしれない。しかし、ギャラリー全体で展開する音の局面を捉えるならば、おそらくこの関係性こそ、with recordsという「展示」が仕組んでいるものと思われる。では、この関係は何か。


 ここで思い出されるのは、いわゆる生物学的/情報論的な「創発/emergence」である。(面倒なので、とりあえず次を参照↓)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA
 単純にいえば、そこでは個々の要素は単純なルールに従っているだけだが、それが全体として一つのシステムをなし、ときに予測不可能なパターンとして現れる。チープな例としては、ヒトの脳とか精神や思考が挙げられるだろう。つまり脳は極論すれば神経回路の電気的刺激のオン・オフだけにすぎない。しかし全体としては遺伝子情報的では予測されない、ある種のパターンを安定的に成立させており、思考や精神はそうしたものとして常に立ち現れてくる。いいかえれば、単純なオン・オフが、環境に適応するなかで、ある種の「自己組織化」をしているのである。(あくまでチープな例です)。これは、自然界の生態や情報論、組織論などでも適用される。


 別に傍証としてではないけれど、実際、大友さん(今回は皆さん「さん」付けにします。ご容赦ください)の作品の中には、ある時期からさきの「アノード」「ポータブル・オーケストラ」のような、ルールと全体の関係を追及しているものがあるように思う。また、とくにブログを拝見していると、ごくまれにだけれども、生態系についての強い関心があるようにおもわれる。随分以前に、たしかwithout recordsについてもそれを生物や動物のように感じると書かれてあったような気もする。まあ、それがどこまでensemblesと直接繋がるのかは、正直ぜんぜん分からないけども。


 ともあれ、こうしたモデルを踏まえると、withの仕組みがかなり分かり易くなる。そこでは観客はただ自分の趣味嗜好関心に応じて、レコードを取っ替え引っ替えしているだけである。しかしそれが、5つのターンテーブルによって、一つのうねる音響というか音塊を作りだし、ギャラリー内を満たし続ける。
 実際、レコードと切り絵を楽しんだ後、外に出てみたとき、ギャラリーそのものが予想していなかった変なノイズ機械に変化してしまっていたことに気づくだろう。出入り口からバリバリ音を出しており(近所迷惑?)、おまけにそのノイズは、変なタイミングで変化している。ギャラリー内でみてみれば、そこではwithoutと同じように、5つのターンテーブルから同時に、しかしバラバラに轟音が響いており、歩くごとに場所によって音の響きは変化し、その音響自体も鋭く激しく、沈黙を差し挟みながら変化していた。これは、誰かが操作しているのではない、観客ひとりひとりの再生が、全体として生み出したものである。
 
 つまり、withには作品の加工と陳列にくわえて、観客による参加とそれによる音響の発生という二重の側面がある。そしてこの後者に注目したとき、観客と音響の間には、いってみれば創発性のようなものが看取される。

そして、ここで「観客」の参加は、とても重要だと思う。
それも二つの意味で重要である。ひとつには、まず単純に作品が開放されていることである。Withoutと比較すればわかるように、ここでは装置の作動はコンピュータによっているものではなく、観客という、これ自体ランダムな要素に開かれている(観客とは、基本的にいつギャラリーを訪れるか、ランダムな存在である)。また、もちろん、観客はじかに作品に手を触れて、それを楽しむこともできる。いずれにしても開放的といえるだろう。

 くわえて、ここでは、観客自体がいってみれば能動的な立場にある。つまり、もともと完成した作品なりマシンなりがあって、それに観客がアクセスし、その作品の作動ぶりを楽しむというのではない。むしろ、観客がアクセスしてはじめて(つまりレコードを載せてはじめて)展示が作動する。いいかえれば、ここで観客はあらかじめ置かれた装置を受動的に受け入れるのではなく、観客そのものが装置を構成している、というか装置の一部と化しており、その行為が直接的に全体のあり方に反映されている。そしてギャラリー内に展示されているのは、そのように観客と作品とによって構成され作動している装置そのものである。


 こうした展示が、どれほど新しいものか、はっきりとは知らない(とくにここ5年間くらいの動向には疎い)。だから、その新しさを正確に位置づけることはできないけれども、しかしある種のメディアアーとしてみた場合、単に観客が作品にくみこまれたプログラムを楽しむだけではなく、そのアクセスそのものを作品内部にとりこんだものは、あまり多くないのではないか。

 あるいは、そうした点ではむしろ、より長期的な視野に置くこともありうるかもしれない。たとえば「日本・現代・美術」で示された(というか個人的には赤瀬川原平の本から読んだ)ハイ・レッド・センターやアンパンの作品、とくに後者での、観客によって作品が「成長」していくような展示との比較もできるかもしれない。そこではいずれも、観客=開放された外部からのアクセスが、直接的に作品全体のありかたに反映されている。ただし、60年代のモデルが「成長/生長」であるとするならば、21世紀のモデルが外部からの刺激による「自己組織化」である、というのは充分にありうることではないか。

 with recordsという展示は、観客の参加を明示してはいない。しかしこれまで見たように、場内に響き渡る音に注目したとき、その性格は観客参加型であり、そしてそうした射程に置かれるものではないだろうか。



 こうしたことは、深読みだろうか。そうかもしれない。とくに、大友さんが「創発」や「エマージェンス」という概念を直接に参照しているかどうかは分からない。また、ここまでの立論は、最初に指摘した局面(会場内の音)の存在が否定された場合、簡単に崩壊する。


 しかし、そうではないようにも思える。上にもすでに触れたように、ある時期から大友さんの文章の中には、個人と集団との創造的な関係にかんする言及があるように思える。とくに、ONJOで、作曲の枠を取り払って、完全即興に入ってからはそれが顕著で、そうした変化の途上にある2枚組×2組のライブ録音では、そうした個々人のふるまいと、全体性との関係についての文章がつけられていた。そして、そうしたONJOの性格がensemblesにかなりそのまま反映されている(らしいという感触)は、野々村さんも認めている。(一方で、作曲というか感情面は、「うた」といわれる方向に圧縮されつつあるようだ)。そして、ここまでの立論は、そのような視点から進められている。

 とすれば、こうした視点を逆転させることもできるだろう。つまり、ensembles09という一連の企画を、ひょっとすればこうしたアイデアにおいて共通していると捉えられるようにも思われる。


 実際、これまで対称的に捉えてきたように、without recordsという展示は、複雑な様相を呈しながらも、その一つ一つの要素は、ターンテーブルのオン・オフだけである。そこに新たに、明滅し、明るさを変えていく照明が加えられており、それによって聴覚的のみでなく視覚的にも同様の操作が加えられた。ただしいずれにおいても、おそらく体感するのは個々の明滅と同時に、まるで全体が意志ならぬ意志を持って動いているような様相である。

 そのうえで、withと本展をつうじて、そこではコンピュータから開放されて、いわば外部の刺激/環境のもとでの組織へと進んでいく。Withについては既に触れた。
 あるいは09本展も、まさに自然環境に晒された中で、個々の作家が自律的に作品を作る中でうみだされるシステム(とその推移)を展示していたのではなかったか。タイトルに引っかければ、そこではもう中枢としての装置(コンピュータ)は常に動いている必要はなく、自然あるいは外部環境との関係のなかで組み上げられる。会場では、いわば展示自体がひとつの生態系のように、環境に対応しながら一つ一つの生長と、全体の自己組織化を模索している・・・・・・・・・というと言い過ぎかもしれないけれど、複数のレイヤーで異なる生成が起こっていて、部分と全体が環境にあわせながら同時に立ち上がっていたようにおもわれる。(前に、その組織され機能する全体をアルゴリズム的といってみたが、同じである。あるいは、この点からすればまだまだ多くの可能性があるように思う。たとえば、野々村さんは展示のシンメトリーを強調しているけれど、環境との関係からすれば、もっと作品自体が位置を動くということもありえるように思う。とくに台風で飛ばされたら、その飛ばされた位置からあらためて組織化を始めるとか)。


 このあたりで議論を切り上げよう。ただしその前に一つ重要であるのは、ループしていない点である。これは会期中になんども強調されていた。

 そしてループしないことの一つの意義は、こうしたいわば個別と全体の創発性にあるようにも思われる。つまり、ループしている状況とは、いってみればただ配電図に電気を流しているだけである。そこでは、分散した系を並列的に作動させることは出来るが、それが環境などの外部刺激に対応した形で変化する、あるいは自己組織化をみることはできない。そのためには、閉鎖している回路を開放する必要がある。ループの破棄は、そのための契機ではないか。
 だから、without recordsが一連の最初に置かれているのは、その点でも示唆的である。そこではループすることは破棄した。しかしまだ外部に晒すというに充分ではない。それらはコンピュータが内側から管理/計算している。その展示は、個人的には見られなかったけれども前年の経験を踏まえた、最新かつ完成度の高いバーション、つまり出発点であり、そこからwith recordsとensembles09は、一切の管理を削除して、個別の反応と外部の刺激/環境のみに委ねる方向へと足を踏み出した。

 こうした点から、with recordsをwithoutとだけではなく、09本展との比較としても捉えることができる。この二つは、いずれももはや「ループ」などが前提とされない地点で事態を進めようとしている。というか、おそらくこの二つを体験した人は、もうそこにループするしないという問題があったことさえ、感じなかっただろう(個人的には全然感じなかった)。だからこの二つは、一方では観客という人の手によるもの、一方が自然/都市環境という違いがありながら、他方で08年から09年への間のおおきな変化を、ともに示しているようにも思われる。


 まとめよう。With recordsには、展示された作品と、その再生にくわえて、もうひとつの局面がある。それは観客によるレコードの再生によって立ち現れる、音の層である。それは、個々の観客の意志とは別に、そうした観客という外部からの訪問者によって組織される一つの装置をなす。それは、「商品化」された「大友良英」の「作品」とは別の、あるいは「加工」されたレコードの「再生」とは別の、ギャラリーと観客全体で作りだした/作りだし続けているもうひとつの機械、あるいは観客個々人の意志をこえて生み出されるもう一つの意志のようであるといえないだろうか。

・・・・・・そのへんが「展示」としては、けっこう面白かったと思うのですが・・・如何?