装置・レコード・創発(2)

ほとんど誰も見ていないだろうけれど、前回のアップ以来、コメント欄で野々村さんと、かなり濃厚な議論をさせていただきました。話題は、大友良英+マッツ・グスタフソン+尾関幹人「with records」について。
議論はまだ中途ですが、やり取りを通じて、一定の合意も得られた一方で、僕自身の議論のブレが見えてきました。そこで、あらためて議論を整理して、次の論点を提示してみたい。というわけで、こうして文章をアップします。

ちなみにけっこう長いです。ただ、議論ということもあり、かなり丁寧に書くよう心がけました。また、必ずしも難解な言葉は出てきませんが、議論の手続きが、やや堅苦しいかもしれません。けれど、一つ一つの論点を丁寧に跡づけることが必要であると思われたので、なるべく論理性と説得性を重視して、このようになりました。ちなみに、アカデミックな香りがするかもしれませんが、僕個人は、アートの専門家でも、理系の研究者でもありません(アカデミズムに片足を突っ込んでいますが、人文・社会系です)。

もうひとつ、ここでは、一連の「アンサンブルズ」展について、「アンサンブルズとは何か」という抽象論をするものではありません。あくまで、with records(以下with)について、具体的に把握し、理解するための作業です。個人的には、このような作業(と議論)を通じて、あらためて「アンサンブルズとは何か」という議論ができると思っています。いいかえれば、おそらくそうした作業をするだけの複雑さや重要性が、アンサンブルズ展にはあったように思います。そのための何かのてがかりになれば幸いです。


(議論の整理−問題提起1)
まず、そもそもWith recordsは、小さなギャラリーの展示でした。そこでは、壁に11枚の、それぞれ異なる切り絵が貼られたレコードが飾ってあり、展示室内には5台のターンテーブルがあります。観客は、壁に掛けられたレコードをとってターンテーブルに自由に載せることができます。ところが、そうやってレコードを載せて針を置いてみると、レコードに貼られた切り絵がその針の動きを邪魔して、ときにレコードを端から端まで横断するように大きく動きます。それによって、再生される音も、いわば断片化されながら次々と続いていくことになる。

この展示に対して、示されたレビューは、次のようなものでした。↓
http://www.web-cri.com/review/misc_ensembles09_v01.htm
おおきくいえば、With recordsは、いってみれば80年代カットアップを繰り返しているだけで、新味がない。ゆえに、アンサンブルズ展の意味も、ほとんど明確ではない。たとえば、これに先立って企画されたwithout recordsの方が、インパクトも独創性もあった。

それに対して、以下の議論は、その異論として示しました。ただし、少しややこしいのは、僕個人が、いくつかの点をごちゃ混ぜにして議論をしようとしていたことです。そのため、議論の焦点がぼやけてしまった。そこで、あらためてこれまでの議論を整理して、論点を明確にしておきます。


順に整理します。まず提起したのは、全体についての見方として、withは、「音響プロセスの展開する空間」である、という点です。
ここでの「展開」は、会期中ずっとを指します。つまり、展示がオープンしたその直後から、僕や、たぶんをこれを読んでいる皆さんがアレコレと試している間ずっと5台のターンテーブルから流れていた音響であり、そして最終日には多数の人が駆けつけたそうですので、足音や話し声がターンテーブルより大きかったかもしれません。そのすべてを指します。

いいかたを変えれば、観客一人一人にとっては、たしかにターンテーブルにレコードをアレコレ載せ替える、いわば「80年代カットアップ」のように楽しむということだったかもしれません。しかし、それと同時に、空間としては、そのアレコレとレコードを取り替えるたびに音が変化し、しかも5台それぞれで同時に変化していく。すると、ギャラリーの空間内には、そうした5台それぞれが生み出す音が混ざり合って、つねに「音響プロセス」として、展開し続けていたのではないか。そして、そのような複雑な音響プロセスの展開を生み出すことが、企画者の意図だったのではないか。最初に提起したのは、そのような仮説です。ここから、以下の議論は基本的に、企画者つまり大友さんの意図は何か、という点をめぐって進められています。


(検証1)
ただし、そうしたことを企画者が考えていたかどうか、については、即座に疑問があがります。
そこで導入したのが、「アフォーダンス」と「創発」でした。「アフォーダンス」については、「MUSICS」の最後に触れられているように、一つの椅子に対してどのように座るか、あるいは、握手においても、どのように他人の手を握るか、にかんして、「コンピュータより複雑」なことも多くみられる、という議論がされています。これが著書で触れられている以上、企画者は、レコードをターンテーブルに置いたり、取り替えたりする際に、そこにコンピュータ以上のランダムさが見られることを意識したのではないか。いいかえると、たとえばプロの演奏家でさえも予測し得ない、複雑なプロセスがそこから生まれることを期待したのではないか。
さらに言いかえると、「80年代カットアップ」のような見かけは、あくまで見かけに過ぎないのではないか。つまり、そこでは演奏家のように意識的に構造などを考えて「演奏」してしまっては、むしろ予期しないプロセスは生まれない。そこでは、あえて「演奏していること」を意識しない方が、ランダムで予測不能な展開を見る可能性がある。ゆえに、わざわざ「80年代カットアップ」のような振りをして、「さあ、適当に並べ替えてください」という風情で、観客が適当にレコードを取り替えるように、意図的に仕組んだのではないか。
これについて、応答のなかでは、「観客のアンサンブル」という言葉をいただきました。つまり作家同士の共作(アンサンブル)というのは見かけで、実は観客のアンサンブルというのがキモである。そうしたアイデアです。それについては、ほぼ完全に同意しますが、ただ後の議論をちょっと先取りしているので、一度脇に置きます。


そのうえで次に、そうやって次々にレコードが取り替えられるターンテーブルと、全体のプロセスについて、もう一つのアイデアを導入しました。それが「創発」です。これは、いわゆる複雑系やカオス理論などで、生態系や地球環境などをコンピュータでシミュレーションするためのアイデアになります。
このアイデアが重要なのは、一つ一つの部分の動きは単純だけれども、それが組み合わせとして全体をみたとき、予測不能で複雑にふるまう、ということです。とりあえずコレ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA

専門家ではないので厳密ではありませんが、とりあえずwithで起きていることについては、このアイデアを当てはめれば、かなりより良く理解できます。つまり、5台のターンテーブルそれぞれは、同じレコードを、ただ単純に再生しているだけである。しかし、それが全体としてみたとき、複雑で、予想しえない組み合わせをずっと生み出し続けていくことになる。個々は単純でも、全体としてみると複雑にふるまう。ぴったりだと思います。
大友さんが、この概念を意識的に使っているかは、わかりません。ただ、時折ブログに挙げる生態系についての関心から、この「創発」や、あるいは、より実地での検討に用いる「自発的秩序形成/自己組織化」といったアイデアを知っている可能性は、かなり高いように思います。ちなみに創発については、近年、他分野でも注目されていて、政治にあてはめた「創発民主制」という本も翻訳されたりしています。

まとめると、withという展示は、アフォーダンスによるランダムさと、それを踏まえた上で5台それぞれが部分として生み出す創発性によっているのではないか。それによって、予測し得ない複雑な音響プロセスを、会期中をとおして展開させるものだったのではないか。そして、このように「音響プロセス」としてみれば、アンサンブルズ展の一環であることも、それほど不自然ではないと思われる、となります。


(検証2)
しかしこれだけだと、説得性に欠けていると思います。そこで次にしたのは、このwithに先だつwithout recordsとの比較でした。
この二つは、タイトルがよく似ています。けれど、よく見ると、そもそも、この二つはほとんど同じことをしているのではないか。それを、「形式的な分解」という形で進めてみました。

つまり、まずwithoutを形式的に分解すると、とりあえず次のようになります。
1)ターンテーブルはコンピュータにより一台一台ランダムに作動する 
2)各ターンテーブルそれぞれには加工がされており、アームを攪乱する 
3)その音響全体が複雑にふるまう

このように見たとして、実は同じことはwith recordsにもあてはまります。つまり、
1)各ターンテーブルは観客のアフォーダンス的ランダムさで作動する 
2)各ターンテーブルそれぞれでは、レコードに貼られた切り絵がアームを攪乱する 
3)その音響全体が複雑にふるまう

このように見ると、with/withoutは、ほとんど同じだといって良いと思います。ちがうのは、レコードがあるかないか(with or without)であり、逆にいえば違いはそこにしかないのではないか。このように見てみれば、withという展示がwithoutの延長上にあり、アンサンブルズ展の一環であることが、かなり明瞭に理解されます。
正直にいうと、この形式的なソックリぶりは不気味なほどで、気づいた時はちょっとゾッとしました。ですが、こうやって見てしまうと、これは企画者の意図的・確信犯的な試みとしか思えない。


おおむね、このあたりが、これまでの議論です。この一連の検討で、withがとりあえず「音響プロセス」の性格があり、またアンサンブルズ展の一環であると位置づけることができると思います。


(問題提起2)
そのうえで、ここからもう一歩、整理を進めてみたい。というのも、ここまではwithがもつ独自の性格については、ほとんど議論していません。議論の要点は「アンサンブルズの一環であるか否か」であり、そこでwithoutとの比較をおこないました。つまり、ここまではwithoutとソックリであることをとりあえず確認したに留まります。ここではさらに、もう一歩、withならではの独自性について検討してみたい。
逆にいえば、そうしたwithの特徴について検討してみると、これまで触れていなかった面が見えてくるように思います。


そのときの議論の手がかりとしては、「観客」の問題です。ここまでの過程で、とくにwith/withoutの比較検討を通じて、かなりwithについて形式的に把握してきました。そのとき、あらためてwithとwithoutの異なる部分についてみてみる、とくに同じ項目でありながら異なっている部分をみてみれば、それは「観客」の導入です。もうすこし厳密に言えば、上記の整理の1)にあたる部分で、コンピュータによる管理が、観客に入れ替わっている点です。つまりwithoutからwithへと跡づけると、withには観客が導入されている。With/withoutの比較において、この点は、かなり大きな違いであると注目されます。
いいかえると、やや先取りされましたが、withには「観客のアンサンブル」といってもいい側面があります。それは何か。というか、そうした観客の導入は、withという展示に、どのような特徴をもたらしているか。それを手がかりにしてみます。


くわえて、その検討の文脈については、大きく二つの点を取り上げたいと思います。「観客」と一口に言っても、それはどのような点から重要なのか、を設定する必要がある。アンサンブルズ展全体においての特徴なのか、大友さんのこれまでの軌跡からの特徴なのか。
ここでは、そうした大友さん個人に特化するのをとりあえずやめて、検討するポイントを、もう少し一般的なレベルで設定してみます。つまり大きく二つ、一つは「アート」としての側面、もう一つは「音楽」としての側面です。
Withにかぎらず、一連のアンサンブルズ展には、この二つの側面が含まれている、というのは、おそらく多くの人にとって前提だと思います。ひょっとすると、二つの側面があるということ自体が、アンサンブルズ展の特徴とされているかもしれない。けれど、ここではあえて分けてみたい。逆にいえば、withという展示は、「アート」「音楽」それぞれの文脈において、特徴があるように思われるのです。


(展望1)
あらかじめ結論を先取りすれば、それは、ある種の「インタラクティヴ・アート」としての側面と、「集団即興」としての側面になります。つまり、観客のアクセスが展示に反映もしくはフィードバックされる側面と、そうした観客のアクセスは、裏を返せば「即興」としての性格を持つ、正確には「集団即興」となる。この二つの側面です。


そして、それによってみえるのは、「音響」と「観客」についての、いわば「組織論」ではないかと思われます。ここで想定しているのは、音響について近年いわれる「空間性の追及」にかんしてです。このフレーズは、しばしばアンサンブルズ展の特徴のようにいわれる。ただ、実際にどのように「空間性」を追及しているかについては、ほとんど口にされません。もちろん、まだ模索中なのかもしれない。
そうしたなかで、withという展示を検討してみると、ギャラリーという空間において、「音響」と「観客」それぞれについての組織論のようなものがみえるように思います。


つまり、まず音響においては、複数のターンテーブルからの音が空間で一つに混じる、そのとき、ここのターンテーブルの音としても聴き取れるだけでなく、全体として一つのまとまりとしても把握される。そうした多様な音響を含み込む空間のあり方。これは音の組織論といっても良いかもしれませんが、この点は、すでに広く議論されているようにも思います。

しかしwithでは、それにくわえて、観客について、「一人一人の個別の行動を、そのまま全体としてつくりあげる」という、個人と全体とにかんする組織論があるように思います。実際、観客は、不特定多数の「集団」ですが、しかしターンテーブルを前にしたとき、実際にレコードを取り替えるのは、集団というよりは一人一人の個々人です。そして、その個々人の行動が、さきの形式的検討でいう「創発」によって、変化し続けるプロセスを生み出す。
これを、観客がレコードを取り替えることで「即興している」とみれば、いわば「創発的集団即興」のようなシステムが採られているように思われます。完全に放置された状況で、観客が自由に行う行為が、全体として複雑にふるまう。そうした集団即興のための方法論です。

そのうえで、あらためて強調すればこうした不特定多数の観客個々人の行動のすべては、音響プロセスにおいて統合されます。そこには、入れ替わり立ち替わり訪れる観客の関与が、「プロセス」として連続される。もちろん、ここではさきの「音響」について空間性もあわせもっており、つまり、この音響プロセスにおいて、集団の組織論と空間の音響の問題が、クロスしているといってもいいかもしれません。

たしかに、それは何か具体的なモノや図像ではない。すぐに消えてしまいます。しかし、常に会場の空気を震わせている、その意味で、物理現象として空間内でマテリアライズしている。つまり、会期中を通じて「展示」されていたのは、このように空間に組織されていたものではないか。裏を返せば、この展示を「音響プロセス」としてみたとき、With が示しているのは、このような、空間における、音響と集団についての組織論ではないか。

わかりやすくいいかえると、withでは、個々人の行動の自由を阻害しない形で、それをそのまま反映したものとして音響プロセスをつくりあげるシステム、というような性格があるように思います。逆にいえば、会期中を通じて会場の空間を震わせていたものは、そこを訪れた観客の行為を別の形にトランスフォームさせたもの、となるのではないか。

ここでマテリアライズとか、トランスフォームといっているのは、このほとんど夢物語のようなことが、コンセプチュアルな次元に留まらず、実際に私たちが目の当たりにし、あるいはその形成に手を貸したものであると思われるからです。実際、切り絵に注目してレコードを取り替えながら、あるいは壁に掛かった切り絵を眺めている間、ずっとそれを耳にしていたと思われます。
これが、想定される結論です。


こうした点はwithだけでは単なる理念的な議論ですが、しかし、より広い文脈において、たとえばアンサンブルズ展や最近の活動まで含めて、共通する一つの方法論を示しているようにも見えます。とくに、音遊びの会との共演以降、新たに模索し始めたと思われる集団即興において、withは、具体的に掴んだ方法論の一つを示しているようにも思われます。(注)
ただし、そのためには、いずれにしても、まずwithを具体的に検討する必要があります。そこでは、あらためて「創発」といった概念をふくめた検討を要するように思います。



注(−展望2 他の展示について) 
すでにかなり長いので、とりあえずここで切ります。
とりあえず、with/withoutについては、「創発」のアイデアをあてはめれば、かなり良くシステムがわかると理解しています(ちなみにwithoutがコンピュータによる管理すなわちシミュレーションである点で「創発」そのままに近く、そこからコンピュータを観客に入れ替えたwithは、創発のアイデアを使った集団即興へ進んでいく、という道筋をかなり明確に示しているように思います)。
が、他について、09本展や、いくつかのライブについては、創発から一歩進めた、実際のシミュレーションの検討において近年いわれる「自己組織化/自発的秩序形成」をあてはめると、よりよく理解できるというアイデアを持っています。

自己組織化は、専門家ではありませんが、一般的には、実際の生態系においてひとつひとつの要素が単純な動きを示しているなかで、全体が、単に予測できないのみでなく、一定のパターンを描き出す事態を指しているようです。たとえば環境に晒されたなかで、巣作りにおいては、一つ一つの主体は環境に邪魔されながらただ掘っているだけでも、全体の構造では、常におなじようなパターンができる。


個人的には、09展のなかで行われたライブ(とくにトリオ)は、こうしたアイデアに基づいているように思います。つまり、一人一人はバラバラだけど、全体としては予測不可能な、しかし一つのストーリーをつくりだし、終わることができる。いいかえれば、ある一定のパターンを生み出し、一つの完結を見ることができる。そうした組織論(この、放っておいてもパターンをつくり、終わることができる、ということの驚きは、「musics」で、音遊びの会との共演について議論されています。組織論の契機がここから始まるように思われるのは、ここにおいてです)です。
あるいは09本展(音楽装置)は、廃校の屋上という一つの場所に、7人のアーティストを住まわせて一つの巣をつくったように見えます。比喩的にいえば、打ち捨てられた空き地を見つけた7匹の異星種族が、てんでばらばらにアートという生命活動をおこなう。結果、それがグチャグチャに絡み合いながら、けれど、一つ一つはひっそりと息づいている。そうしたアートの生息地域だったのではないか。


見方を変えれば、これはほとんど「ほったらかし」に近いですが、逆にいえば、単なる「共作」や「合作」とは一線を画する部分があるように思います。それは、繰り返しになりますが、一つ一つ、一人一人の自由を阻害しない形で確立させ、かつ、それらが全体としても機能する、という、ある種の二重性です。みんなで一つのものを作るというのではない、みなはそれぞれ一つのものを作る、そして、その全体も一つのものになる、その一つとは、空間を震わせる音響である。つまり、あえて合作というなら、その合作は作っている本人も意識していないだろう「会場全体の音響」という一点においてのみ、ということになります。
もしこうした見方に、ある程度の蓋然性があるとすれば、ここで興味深いのは、「全体」が、「音響」という形で現実化していることです。実際、創発においては、複雑にふるまう全体とは、単にシミュレーション上の問題に過ぎません。あるいは、単に計算上の問題、現実とはかけはなれたアルゴリズムにすぎない。けれど、ここでは、それが「音」という局面で、現実化している。その全体を、触れることはできないけれど、耳でまるごと体感しうる。しかも空間的に分散した音響として、その細部まで複雑な変化を聞き取ることができる。

ですから、評価しろといわれれば、この点が圧倒的に興味深いと思います。コンピュータを使ったインタラクティヴ・アートはあるかもしれない。けれど、この一連の企画では、コンピュータを捨て去り、むしろ人間を再導入することで、集団論でもあり、組織論でもあり、また予測し得ない音響をつくるための方法論でもある、そうした議論を提起しているように見える。しかも、シミュレーション上の全体を、「音」という物理現象として実体化させ、それを体験できる。これは、全体としてかなりオリジナリティがあり、またかなりアクチュアルな方向性を示しているように思います。
ちなみに、こうした見方を進めると、その最大の危険は「ほったらかし」と紙一重であることのように思います。そのためには、最小限の適切なルールなどが必要となるかもしれない。すでに行われたフライング・オーケストラの企画などをみると、そういう点にも意識的であるようにも思います。

はい。続きを書くとしても、たぶんwith/withoutから射程を広げた議論まで行くのは難しいと思い、アイデアだけを記しました。アンサンブルズについて創発や自己組織化が言われているかどうかは厳密には分かりませんが、逆にいえば、一度この概念を知ってしまうと、こうした議論が皆無なのも不思議のように思い、とりあえず進めてみました。ちなみに自己組織化については、ちくま学芸文庫でそれをタイトルにしたものがあります。とりあえずは↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%B5%84%E7%B9%94%E5%8C%96


注・・・2 ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。あと、以前のコメント欄で、とくに野々村さんには、お付き合いいただいたこと、感謝しています。いくらか面白い点があったら嬉しいです。
ちなみに、ここで書いたことの「すべて」が正しいと思っているわけではありません。ただ、このうちのいくつかが当てはまる、あるいは、より良い理解の手助けになれば良いというくらいの意図です。正直、アンサンブルズ点はどれもけっこう面白かったのに、分からなかったことがあまりに多いです。野々村さんのレビューで梅田さんの作品はだいぶ理解が深まりましたが、個人的には毛利さんのやっていることがさっぱりわからない。あの、ライブでも客席内で使っていたファックスみたいな機械は何なのでしょうか・・・ひょっとしてチューリングマシン?ちがう気もしますが・・・。
とりあえずここで切りますが、続きは専門家の方が書いてもらって全くかまわないつもりです。ごく普通の一ファンとして、いま現在、大友さんの活動が(またも)大きく変化しているように見えます。観客、いくつものオーケストラ、開放系、集団即興・・・しかも、迷走期間はもう終えて、何か手がかりを掴んでいるようにさえ思われます。議論するなら今という気がしますが・・・そう思いませんか?

それくらいのニュアンスで、
(以下つづく)