装置・レコード・創発(3)−番外

 ●ちょっと間があいた。・・・すでにアンサンブルズ10年展の企画が始まりそうな気配。ということは、ここでの議論は過去についてのものになろうとしているようだ。
 のだけれど、議論はちょっと休憩、というか、番外的な議論を。

 ●というのは、ここまで続けてきたけれど、この議論が何かアヤしげなタームを使ってデッチあげたような、突飛な印象があるのではないかとも思う。そこで、ここで使っている概念が、別の領域でどれくらい使われているか見てみるということを思いついた。が、これが切りがない。

 実際、そこそこアカデミックな本を開いても、かなり、というか意外なほど「創発」というタームはみつけられるのだ。ある意味で、すでにその語は「一般的」であるといっても良い。そこで、そのうちのいくつかを挙げてみよう。


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 ●たとえば、かなり早く用いているのは東浩紀氏の「ポストモダンの二層構造」論だろう。そこでは創発は社会を理解するためのキー概念として使われている(要約は難しいけど、要は今の社会は小さなコミュニティと全体に分裂しているということだとおもう。つまり、かつてのような社会全体を覆う大きな物語が失われた結果、一方で人々は小さな趣味の世界に引きこもっており、そうした小さなコミュニティはそれ自体で完結している。そのうえで、社会はそうしたバラバラの集団全体のふるまいとして現れてくる。その関係が創発的で、そして社会についてはそのような二層構造として捉えてみる/なければならないということだと思う)。これは最近書籍化された「文学環境論集」で初めて読み、その取り入れ方の早さに驚いた。

 氏は「情報環境論集」でもキーワードに創発をあげていたり、社会分析に際して創発を積極的に導入していて、もちろんどれも試論なので、そのつど評価は変わるけれども、いずれにしてもかなり早い。また、ここを起点にすると、社会論や政治理論、経済理論など、かなり色々な領域の議論をみることができる。


 ●また、S.カウフマン『自己組織化と進化の論理−宇宙を貫く複雑系の法則』(ちくま学芸)をみれば、そこでは生物学から天文学、社会分析や政治論まで、かなり広い論点があげられている。ここで使われているのは「自己組織化」というタームだけれども、基本的な考え方は通底しているといっていいだろう。さらに、同じくちくま学芸では、P.クルーグマン『自己組織化の経済学−経済秩序はいかに創発するか』もある。

 とはいえ、注意すべきはこうした「創発」「自己組織化」が万能のタームではなくて、あくまで一つのアイデアであることだろう。これらは、いわば試論のような性格をもっていて、そうしたアイデアを受けて、もっと議論を豊かにしていくためのヒントになる。そのうえで、念のためにつけ加えておけば、これは何か宗教性のようなものを伴うような怪しげなワードではなく、充分に学術領域で見られるタームであるということは、あらためて確認しておく。


 ●そしてもちろん小説。とくに、セル・オートマトンや自己組織化というところまでタームを広げていくと、小説とくに現在のSFでは一つのキータームでさえあるようにみえる。これは英米でも、日本でも共通していて、レナルズや円城などにとくに頻出。ここではもはや概念ではなく描写のなかに平然と登場していたりして、SFばっかり読んでいると、いつの間にか、このタームが時代を代表する考え方であるとすら思われてくる。


 ●さらに、ざっくりと意味を広げて、「限定された要素から、組み合わせによって無限のパターンを生む」という風にしてみれば、こちらは哲学にも繋げられる。実際この「 」内自体が、ドゥルーズの「フーコー」末尾近くの引用だし(要約は複雑なので省略するけど、そこでは21世紀あるいは来るべき未来の社会の特徴として、こうした点が指摘されている。ちなみにドゥルーズを読んでいると、一つ一つの個性と、全体の動きとの、その両方の関係についての議論、たとえば「多と一」というような議論が一貫して沢山出てくる)、ここから一気に議論を広げていくこともできるだろう。

 いずれにしても、こうやってみるだけで、かなりあちこちにそのタームや、にたような考え方が広まっていることが分かる。このこと自体、かなり驚きでもある。ある意味で、今ものをかんがえるときの、一つの常識のようなことなのかもしれない。


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 ●ちなみにこれまでの議論に繋げると、あちこちに「創発」的な考え方が見られるからといって、どうこう言いたいわけではない。とくに、それをもって「時代を代表している作品」などと言いたいのではない。そもそも、創発という概念にそれほどこだわっているわけでもない。

 ただ何度か繰り返しているけれど、上に挙げたようなひろがりを踏まえれば、このような理解の仕方が一つの選択肢としてあり得るだろうし、逆にいえばどうしてそういう議論がないのか、むしろ疑問に思ったりする。
 (細かくは触れないけれど、「美術手帖」最新号の座談会で「アンサンブルズ」についての言及が数カ所あるけれど、実は読んでもあんまり分からなかった。というか、「建築」や「音楽」という他ジャンルとの関係が多くて、内容については曖昧なままの印象がある・・・まあ文字数の制限もあるから、作家や展示一つ一つに議論を割くわけには行かないという事情もあるのだろうけれど)


 ●あるいは、むしろそうやって視界を広げてみると、上に書いたように、意外にも創発は「一般的」といってもいいほど、あちこちで見られていることに気づく。すると、こんどは逆に、そのなかで、これまで取り上げてきたものはどのように位置づけられるのか、という問題もありえるだろう。つまり、概念としての創発はある程度わかった。とすれば、そうした概念と、実際の作品にはどのような共通点とズレがあるのか?


 ●その問いは大きすぎてここでは答えられない。ただ、重要なのは、いずれにしてもそこでは、理論的な組織論と具体的な作品についての、ふたつの視点が必要だと思われることだ。組織論の重要性については、いままで進めてきた通りの特殊性があるように思われるし、さらに、それを抜きにしてしまうと「アンサンブルズ」というタイトルにも示されたコンセプトの根幹を見落としてしまうことになるだろう
 
 (たとえば上述の「美術手帖」でも、一人一人の作家において、あるいは全体を統合する主体について、主体性が見られない(「恣意性がない」)というような批判的な言及がされている。しかし、それはおそらく違うとおもう。前回にも触れたように、この展覧会では一貫して、一人一人の作家の主体性がありながら、同時に全体としても一つの主体をつくり出すこと、その際に観客から環境までを含み込んで「全体」をつくり出すこと、というような性格がある。わざわざ創発なんていうキーワードを出したのは、そういう批判をあらかじめ先回りしようしたところもある)。


 ●その一方で、もうひとつより具体的な作品については、その芸術性とともに、社会性をあげる必要があるだろう。実際、先の議論に書いたように、あの一連の展示は(創発という観点から見たとき)必ずしもアイデアそのままではない。むしろ、変な要素が沢山入っていて、そのことが作品に力強さを与えていたと思う。
 
 そこでは、一方で個々の作家それぞれの個性(音響的といってもいいかもしれない)がみられるとともに、他方で、もっと具体的な何か、とくにその場所の特性や関わっている人たちモノたちの個性が、ひとつひとつの展示に反映されていた。というか、それらを基礎として展示が立ち上がっていた、とおもう。その点で、一連の展示はどれも、その場その場の現実社会と確実に繋がっていたはずだ。より具体的には、その会場にしても個々の作品にしても、いずれもが既に用いられた、既存品を素材にしていることにある。しかも、その際に注目されるのは、そこには「廃墟」のような死の気配や、「ジャンク・アート」のような陰鬱な気配はほとんどなく、むしろ明朗とした雰囲気にあったことだろう。


 ●この点には、たぶんもっと注目する価値があると思う。既存品の使用は、一方には経済的に安価であるという利点もあると思うけれど、一方で、それをどのように用いているかという点については、まだほとんど議論されていない感があるからだ。けれども実際には、どの素材を選び、それをいかに使っているかという点にこそ、作家がもっているリアリティや価値観や美学が出てきているはずであり、しかも多くの場合、素材はもともとあった「日用品」であるのだから、なおさら、日常に対する接点が見出されるだろう。

(そしてこの点は、08年のアンサンブルズと大きく異なる部分でもあるように思う。実際には見ていないが、08年ではもっとジャンク・アート的、あるいは「秘宝館」的な使い方がされていたように把握している。それに対して、09年では一貫して、そうした淫靡な気配はかんじられなかった。いってみればそこには、どこか「中古品」を使っているような、とても軽い感じ、もしくはネットオークションが一般化した時代の「家具」や「住居」にたいする処し方や社会観があるように思う。時折いわれる「サバイバル」や「リアリティ」について、こうした点から迫ることができるのではないか。)


 ●とはいえ、こうした問い自体が、徐々にアクチュアルな時機を失いつつある。実は今はそもそも休憩中で、実際、先日の「大友良英3デイズ」にも行っていなければ、他のライブにも行っていない。感性の摩滅って、こういうところから出てくるんだなと思う。とくにアジアからの演奏家を招いた企画は行きたかった・・・なんだかこの頃、日本国内の企画がどれも急速に「日本」のみに閉じている印象がある中で、あっけらかんとインターナショナルである企画は、その点でもけっこう面白いはずだったのに・・・・・・。つまり、ここでの議論は、とりあえずは09展のみを相手にしているだけで、徐々に作家の最先端から離れつつある。10年展が本格的に始まってしまえば、もうこの議論は時機を失うだろう。まあ、別に議論する必要があるかといって、どうかは分からないけど・・・
 ともあれ、一方でまだ09年展についての謎は、個人的には解けていない気もするし、一方で、いま現在起こっていることについてどうなっているかも気になる。求むレビュー。