もう一回やすみ

●やはり気になるので作業を早めに切り上げ、前日に続いて神保町の「路地と人」に、毛利悠子「ワンデイダラス」+牧野琢磨「クローズド・チューニング」を見に行く。見に行くというか、なんというか。

●というのも、ちょっと遅刻したところ、ギリギリだけど入れないという、ある意味で珍しい状態。そこでしかたなく入り口で立っていたけれど、途中で激烈にタバコを吸いたくなる。そこで灰皿をお借りして、階段脇のスペースで喫煙にふける。とはいえ依然として出入りがないので、結果、このまま2時間ずっと煙草を吸い続けようかと一人決意。
 ということで、外の廊下の窓際で、ずっとタバコを吸っていたマゲみたいのが僕です(笑)。自分でもこのシチュエーションはおかしいというか、途中で、そもそもタバコが足りなくなるのではとか変なことを考えたり。演奏をじっくり見たのは、たぶん15分くらい(笑)。なんなんだ?というか、あの位置は、実はとにかく暑くて、あとで思えば、もっとも外気に触れている場所だからだと判明。いずれにしても、音を聴きながら煙を生成する作業に注力して過ごす。


●なぜわざわざこんなことを書くかというと、なんだかんだで楽しかったので。とても場の雰囲気が素晴らしい。ごく自然にアートがあって、人がいて、ダラダラできて、というのは、これまで日本だと体験できなかった気がして、良いなあと。
 場所も気軽にいけるところだし、かといって、マニアっぽいわけでもなく、逆にいかにもオシャレというわけでもない。ごくごく日常と地続き。実は、そもそもこの展示に足を運んだのは、作品もあるけど、会場のあり方に興味を惹かれたからだった。そして、その勘は当たり。

●原宿の「VACANT」もそうだけど、こういうところが、もっと沢山あるといいと思う。銀座のギャラリーみたいなところも良いけど、もう少し気楽に、でもコンセプトには筋が通っていて、行けば力強い作品を見れる。ちょっと休みもできる。文化って、そういうものじゃないかと思う。タバコを吸って休んでいたら、なんかアートが隣にあって覗いてみました、くらいの、そういう日常。
 もし行政が支援するなら、こういう試みこそ、その対象になるべきではないかと、けっこう本気で思う。



●ちなみに休憩時間が入って、なんだか長そうなので、久しぶりにディスクユニオンに行ってみる。途中、神保町交差点で「耳がおっきくなっちゃった」の人の、師匠の人を目撃。名前を忘れて「あっ・・・」とか思っていたら、瞬時に姿を消してしまった。妖精みたい。
 そのあとコンビニでカレーパンを買って食べて戻ってみたら、今度は真面目にイベントっぽいことが起きていた。でも、中に入れないので、やはり煙生成に尽力。



●そのあと、すこし展示を眺める。やはり感想は、二回は見てからでないと当てにならない。演奏者がなかにいると、印象がぜんぜん変わる。作品が背景に退いてインテリアの一部になり、そうすると、まるで空間がダンスをしているみたい。また、紙が前日からあらたに白くなっていて、それだけでも印象が大きくちがう。おまけに昼と夜の違いと言うこともある。

●あらためて、いくつか感想。すごく変わった展示。洗練されているようで、色々な人が妄想を喚起されそうな余地が沢山ある。なかでも、とても独自の面白さがあるように思った。そこまで、順を追って書いてみる。


●まず、全体の印象から。とりあえず、これは単純に「機械」なのだと思い直す。つまり、前回の感想は一部撤回。「・・・みたいな」というような、擬人化とか、擬動物化とか擬昆虫化とか、そういうことはする必要がない。もしくはそれは後回しでもいい。完全に機械。だけど、意味がわからない機械。

●ただし、一方で重要というか印象深いのは、全然メカっぽくないところ。いかにも「機械です」という感じが、全然しない。なんというか、冷蔵庫、電子レンジ、そのとなりにこの機械、というかんじ。歯車にいるゾウとか、部分的に可愛いし。いわゆるジャンク感は皆無。また、しばしば機械を使ったものだと、コードが露出していて、それを「見ていない振り」する必要があったりするけれど、ここではそういう欠点は全くない。とても洗練されている。
 


●もう少し踏み込んでみよう。では、それはどんな機械だったか。
 そこでまず気が付くのは、全体が、どうやら、なにかまったく無関係な機械で構成されているようにみえることだ。つまり、プリンタ(もしくは輪転機)、スキャニング、照明、すべて別々の機能で、その間に、歯車的な時計がはさまっている。たぶんこれらは、単独でも意味がある。もしくは単独でこそ、きちんとした機能があるように見える。しかしそれが、変なところでくっついてしまっているらしい。
●一応、中心になっているのは、紙のようだ。これだけが自己完結的にぐるぐる回っている。とはいえ、ではそれが何をしているかというと、とくに意味のあることはしていない・・・プリンタ(もしくは輪転機)が印刷するものといえば、紙が勝手に押しつけられた床の形になっていて、次第に真っ黒になっていくばかりだ。その紙が黒くなっていくプロセスの間に、色々と別のものが挟まっていて、色々と変わったことが起こるようになっている。
●いいかえると、最初から全体が一つの塊なのではなく、そのような別個の機械がくっついているようにみえる。たとえば、印象深い部分としては照明の点滅があるけれど、それについても「全体として」照明の点滅そのものを目的としているかどうかは、とりあえず分からない。


●このことは、おそらく別の形にも見られる。それはリズムの問題だ。つまり展示は全体として一つのものになっているけれど、その中で展開しているリズムは、かなり異質なテンポの複数のものを含んでいる。具体的には、ゆったりしたロールの回転、さらにゆったりした紙のたるみと折り重なり、そして時計によるスイッチの切り替え、読み込みによるランダムな照明、この全部がテンポがちがう。

 おそらく、展示をいくら見ても飽きない一つの理由は、この多様なリズムの重なり、その妙にあると思う。個人的には、展示全体をあまり「音楽的」には見ていなかったけれど、もしその点からすると、展示全体が放つ、うねるような積み重なったリズムがそれに当たり、しかもとても魅力的だった。



●このあたりを基本的な理解として、色んな妄想が広がっていく。
●たとえばマジメにいえば、プリンタ的な「印刷」の機能に注目すると、社会批評/文明批評的に理解できるかもしれない。つまりパソコン時代における、人と紙との関係を、奇妙に変型させた「メディア論的な作品」として見ることもできるかもしれない。そもそも、素材としてプリンタやスキャニングのような装置を使うこと自体、相当に新しい関心だし、面白いし興味が湧く。でもそのあたりは、よくわからない。


●一方で、もう少し妄想的に見てみたい。すると重要な点としては、やはりどこかセクシーなところだ。少し詰めてみると、まったくちがう意味で、別々に2つあるようにおもう。

●一つは、部分部分について。つまり、紙のたるみや、紙がズリズリと床を擦っていったり、塗料が付着したり、ゆっくりと巻き上げられていく様そのものが、官能的にみえる。これは、たぶん制作者も、どこかグッと来るところがあるので、使っているのではないだろうか。あるいは照明が点灯することとかも、それ自体がグッと来る。

 つまり、エロといっても「性と死」みたいな深遠なものではない、もっとパッと触れたり見たりすると「グッと来る」ところ。そういう「来る」パーツ(難しくいうと「部分対象」とかいうのか?)を、そのまま繋いでしまったようなところがあって、そのためか、なんとなく展示全体がとても明るい愉悦に満ちている印象を受ける。


●もう一つは、まったく違う観点から、全体において。この全体の機械が、大きな官能というか、生物/生理的な刺激と反応のようにみえる(ここで「・・・のような」を使おう)。つまり、生物とかで、ある部位に特定の刺激を与えると、生理学的な反応を見せる、という実験があると思うけれど、それに似ているようにみえてくる。つまりはその部位が紙で、それをロールで動かして墨という刺激を与え、それが、読み取り→照明というかたちで反応をみせる。部屋中が、刺激にピカピカ反応する。

 しかもこれは全自動だ。ほっておいてもそれを繰り返し、おまけにそのつど、刺激(墨の付き具合)も異なれば、反応も異なる。そういういわば全自動官能装置のようなイメージ。このときは、制作者も、製作というところから離れて、脇に立ってその反応を眺めているのではないか。それがどのような反応を見せるかは、実際に立ち合った人しか分からない。

 しかも、もっとも肝要なのは、この官能は誰のためでもないというか、人間向けのものではないことだ。それは機械自体による表現であり、これを受け止めることができるのは、同じような機械だけである。そして、それは存在しない・・・・・・機械の、機械による、機械のための、刺激と反応。


●そのような、二つのちがう意味でのエロさが、同時にあるようにみえた。こんなことを書くと、自分が単に変態みたいな気がしてくる・・・。けれど、単に「機械を使っている」だけではない、どこか引っかかる部分がある(つまりアートである)のは、このような特異な質のためのように思う。

 いいかえると、最初に触れた点、つまり複数の機械の繋がり、無意味な機械、オートマチックな放置などの点は、このところ見ていた「アンサンブルズ」的というか、主体的/人間的な反応からの脱出や、複数の機構の並列による組織の形成(と理解している)ポイントと、共通点があるようにも見える(実際、毛利さんを初めて見たのは、ピットインでの大友良英、梅田哲哉とのトリオで、ステージで何かを食べているのに度肝を抜かれた。あれはボディ・ペインティングよりも衝撃的なパフォーマンスだ)。

 けれど一番最後に触れたように、ここでは、そこからさらに作品として、人間でも生物でも自然界でもない、なにか別種の独立した表現に辿りついてしまったようにみえる。つまり、「機械が、機械のままで」官能性などを表現できるありかた。それは、じつは凄いことなのではないか。もう神の似姿でも、人間の影も、生物の隠喩もない、単なる機械。しかし、その水準で独立した表現になっている。あえていえば、機械の愉悦、というような・・・

 そういえば、この展示は一連のテーマとして、機械の楽園のようなものが掲げられていたはずだった。それは、このような意味で捉えられるのだろうか?


 これは、もちろん妄想かもしれない・・・・・・こんな感想で良いのだろうか?まあ、いいか。ともあれ、複数のリズムにしても、一見して使途不明な機能にしても、とても充実した印象。



●ちなみに、牧野さんという人を初めて見る。演奏も初めて。想像していたより、全然ガッツのあるかんじで、びっくりする。もっとソロとかデュオとか見たい。とくに前半の即興的なものが印象的。といっても、ちゃんと見ていたのは15分くらいでしたが・・・


●帰ってみたら、蹴球的にアルゼンチンが負けていた。もともと応援していたのはガーナで(これは前回大会から注目して応援してた)、強そうだなと思っていたのはポルトガルとアルゼンチン。全部まけてしまった。さすがにワールドカップは奥が深い。


●それにしても、ぜんぜん雨が降らない、これでこれから熱帯雨林的局地的豪雨の夏とかなのだろうか・・・暑そう。と思ってたら、この2、3日で降り始めた。どうなっているんだろう?