しまった・・・「ダラス」再論−レコーダーの機能的変換

●先日「ワンデイ ダラス」について感想を書いたけれど、さっき「ホリデイ・ビキニ」の予告ページを見ていたら、あの展示に全体として、テープレコーダー(もしくはオープンリールのデッキ)のモチーフがあることに、やっと気づいた・・・

●そう考えると、とても腑に落ちる展示。というより、ある意味でとても分かりやすいのではないか・・・。つまり紙がテープで、録音されるプロセスが展示されていて、それが順次、再生されている・・・・・・とすると、部屋中がデカいレコーダーということになるのか・・・
 しまった〜、下でも触れるようにこれまでの感想を取り下げる気はないけど、たぶん完全な読み間違い。

●これは皆さん知っていたのだろうか・・・これも読み間違いか?まあ、そうかもしれない・・・。
 うーん、実は「音」に関係していたことは、告知ページからも知っていたのだ。しかしなんとなくあえてそれは考えないようにしていた・・・・・・というより「テープレコーダー」というモノの存在を完全に忘れていた。反省。



●とりあえずそういう点をふまえて、あらためて考えてみる。もちろん、これでも正しいかどうかはわからないという留保はつけたうえで。とはいえ、確かに何か変わった展示だった・・・では何が変わっていたんだろう?

●そうすると、そうか、まずいわゆる「メディア・アート」として、捉えることができる。つまり通信や、音楽、映像について、テクノロジーを使った展示として、レコーダーを扱っているものとして捉えることができるわけだ。とすれば、メディア・アートといえるのかもしれない。
●ただ、そういう風に見ると、一点だけ。ここではある意味でメディアとアートの関係がひっくり返っているようでもある。つまり、情報技術をつかったアートといっても、それに関係する機器をそのまま使っているのではなくて、逆に会場内に、別種の機械をもちこんでレコーダーをいわば再構成している。メディアを使ったアートというより、アートでメディアを試みている。そんな風に考えられる。これは、特徴だろうか・・・。


●とはいえ、そのような目で見てみると、少し輪郭がはっきりしてくる。もしレコーダー(的なもの)を再構成しているとすると、そこで特徴なのは、その内部の機器だけを取り出したもののように見えてくる。実際、ついつい「音」が出ていることに注目してしまうけれど、あらためて振り返ると、そこには実はマイクもスピーカーもない、つまり、録音や再生に必要な機器は置いていない。とすると、それはまさしくレコーダー(もしくはデッキ)の内部を、それそのものとして拡大し展開したもの。そして、それが音を立てているもの。そういうふうに見立てることができる。
 このように捉えると、そうか、たとえば大友良英without recordsや、サンプラーシンセサイザーのプリセットされた音をそのまま使うような、そうした音楽やアートと、繋がりがあるように見えてくる。つまり機械そのものの音、というような。


●そう捉えると、そのアプローチの向いているところが少しわかる気がする。つまり録音や再生といった部分が出す音に向いている、それをそのまま取り出しているということか。
●ただ一点、そこで気になるのは、そのアプローチは機器そのものには向けられていないようにみえることだ。つまりここで向けられているのは、機器といっても「部品」ではなくて、いわば「機能」のようにみえる。
 どういうことかというと、実際ここでは、レコーダーをただ部品に分解して、再構成するような、そうしたものではない。単に機械だけではなくて、そこに〈紙=テープ〉が入り込み、それがぐるぐる回って一連の作動がつくられている。とすると、ここでのアプローチは、単に部品ではなくその機能に、つまり〈紙=テープ〉と〈レコーダー〉が接触する、いわば「関係性」に向いているようにみえる。
 いいかえれば、実際の録音・再生は、機器だけではできない。それには、この二つ(テープとレコーダー)がなければできない。そして、ここではそうした「機能」の具体的な局面に注目しているように見える。だから、この展示ではずっと紙が回転している必要がある。つまり単に機械単体だけではなく、そこに紙=テープをあわせた関係性として、録音・再生の機能を取り出したもの。そういうふうにみえてくる。


●そうすると、これを裏返せば、そのことによってこの展示では、もとのレコーダー(あるいはデッキ)が、奇妙な形に分断されて再現されているとも捉えられる。つまり機能に特化した機械、として。
 実際、上のアプローチに従えば、ここでは、大きさやその周辺機器、あるいは部品相互の合理的なシステムなどは捨象されてしまって構わない。むしろ、それが果たす「機能」だけを抽出して、拡大し、別の素材に置き換えたうえで、つなぎなおす。そうした機能的な置換と拡大・再構成がおこなわれているようだ。
 当初、「無意味な機械」という印象があったけれど、それはここから来ているようにおもう。それは無意味かも知れないけれども、ある機能だけは果たしている装置。もしくは逆に、実利性を無視して、機能だけのために特化した機械。そうした変形がおこなわれているように見える。

●整理すると、そのアプローチは、まず機械ありきではなくて、むしろ実際の機能の側から迫っているように見える。つまり実際の部品を使っていじるのではなく、機能の各側面で、何と何がどのような関係があり、何が起きているかを捉え直そうとしたもの、そのように見ることができるかもしれない。



●そうすると、では何が起きているのか・・・。とりあえずわかるのは、ここでもう一段階、飛躍があること、つまり「機能」を別の形に「変換」していることだ。
 とりあえずわかるのは、それは、「紙=テープ」と、それを取り巻く「環境」との関係として再現されていることか。実際、ぐるぐる回り続ける紙=テープに記録をほどこしたり、また再生(あるいは何らかの反応)を引き起こすのは、環境もしくは展示会場そのものだ。記録は床だし、反応は会場内の照明になっている。とするならば、あらためてここで、環境をつかった作品として、見直す必要があるのかも知れない。

●うーん、とりあえずここまでしか進めない。実際に何が起こっているのかを理解するには、もっと具体的に、ここで機能的に取り出された床+紙+墨や、紙+信号+照明といったところまで踏み込んでいかないといけない。つまり変換の具体相について、素材や部分の問題がでてくる。しかもいま書いたように、そこでは単にテープ+環境という2つだけでなく、実はさらに3つ以上の関係がある・・・。
 くわえて、これらの関係はずっと一定であっても、アウトプットとしては次々に変化するという時間的な側面もある。とすると、部分だけでなく、全体の環境が何を形作っているのか、さらに音も含める必要がある・・・・・けれどそれを理解するには、たぶんさらに見る角度をふやさないとだめだ。


●ここまで、もちろんこの見方が正しいかどうかは分からないけれど、どうして面白かったか、少し分かってきたような気がする。とりあえず、いってみればレコーダーの機能的な変換という見方が出来るかも知れない。
●一方で、さらにくわえて、このようなコンセプト的な見方も出来るし、あらためて前回書いたような、様々に受け取れる豊かな細部もある。やはり、その豊かな細部や感覚も忘れがたいし、特異な印象がある。個人的には、もちろんコンセプト的な理解も大事だけど、同時に妄想を誘発されるところが、やはり面白いところでもあるし。感想としては、それは絶対おとせない。その余地があるところが、面白いところかもしれない。

●うーん、誤読してしまった・・・とはいえ、逆に、ちょっと一歩わかりかけてきたような気もする。というか、想像以上に複雑だ。しかも、これは関連している他の2つの展示との関係もあって、それをあわせるとさらに複雑なことになる。
 そして、まもなくその3つめが始まる・・・いったいどうすればいいのか?