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●どうやらこの文章は、妄想と論理の間を行ったり来たりしているようだ。まず妄想が先走り、そのあとに論理が全然ちがう形で整理し直す。頭のいい人なら、最初から論理的なのだろうけど、残念ながらそうではない・・・というか、じつは論理だけで収まってしまうものには、わざわざ書く動機を見出せなかったりする。けれど、収まりきらない部分を、どうやって捉えればいいのか。簡単な方法は、個人的にはまだ見つからない。だから、書いてみるしかないようだ。
 ということで、今回はちょうどその間くらい、妄想と論理がブレンドされたあたりです。



●この前に、「どうすればいいのか?」と書いた。その答えは当然、「見に行くしかない」である。
 ということで、毛利悠子+梅田哲哉+堀尾寛太「sun and escape again」を見に行く。展示もあわせて。
 
 ・・・とはいえ内容は、行った人しか分からない、描写不可能な事態の積み重ね。とりあえず3者3様の大工的作業に始まって、一転して暗くなり、最後は流し素麺で終わる。
会場の広さや客入りで、行動に制限があったのかもしれないけれど、意外にもダイナミックな展開におどろき。単純に楽しい。終わった後も楽しさは持続して、とても素敵なイベント。パフォーマンスでこういう楽しさは、初めてかも。

●とくに思ったのは、どうやら観客としての立ち位置をズラされているような感覚。最初は「観客」として(主体的に)作業を観察している感じだったのが、暗転するや、特殊な世界に閉じ込められた(つまり受け身的な)位置に置かれる。それがさらに流しそうめんになると、アーティストも観客も区別のない、「参加者」のような位置へ流されていく。それを通じて、このイベントを通して観客が「観客」から解放されていくような感じがあり。楽しさの由来は、多分ここにあったようにおもわれる。何か目からウロコな体験。

●また、これを見て、ようやく「音楽装置」のコアが、ここにあることを理解する。使っている道具もそうだし、3人がほとんど混ざらずに作業を続けること、作業したら機械が自律的に動き出すこと、それをさらに壊して全体が次々に変わっていくこと、など、共通すると思われる部分が多い。あれが一体何だったのか、個人的にはまだ答えが出ていないけれど、その一つの核を、間違いなくここに見つけた。


●あとは、作品を見て。やはり紙=テープがテーマなのだと(とりあえず個人的な理解として)確認する。メディアといっても、メディアとしての紙に注目したというべきなのだろうか。そこが普通のメディアの理解からしてかなり独特。
しかも紙そのものではなくて、やはりある機械と紙との「関係性」を前提にしているようにみえる。もしくはそのうえで、さらにその機械の実利性を無視して、機能だけを拡大特化させてしまうようにみえた。結果、紙はふつうではあり得ない形として取り出されて、たとえばトイレットペーパーは、ペーパロールと水だけに特化された機能のなかに置き直される。そして変質する。とはいえ、その結果が予想以上に見事なのがスゴい・・・「地層」という表現があったけれど、個人的には一見して、水中で花が咲いているようにみえた。思わず見とれる。


●うーん、全体的に展示に衝撃を受けた。実は未だにスキャナーやプリンターの作品については良く分かっていないけれど、とりあえず後半の2つの展示には、単純に機械を使っている、ただ作動しているというだけでない何かがあるような体験。作り手としては、ひょっとして「紙がどうなるのか」という興味だけでやっているかもしれないけれど、見とれてしまうプラスαがあり。あと、全体的に楽しい雰囲気があって、それが一番、最大の謎。なぜ機械なのに、楽しいのか?

 そんな興味が誰にあるのかわからないけど、個人的には「独身者の機械」のようなアイデアに惹かれていて、でもそんなものとはまるでちがう機械が、そこにあった。唯一分かるのは、機械だけで完結したシステムなのではないこと、そこに紙があり、相互の機能と関係性があるらしいこと。だから、自己完結した独身者ではないようにみえた(と思われる)ことだろうか(これまでの展示への妄想は、実はこうした興味から来ている)。では何かは、全然分からないけど・・・
つまり何が言いたいかって、アートって、意外に楽しいじゃん、と、展示を見て(けっこう心から)思った。



●ちなみにさらに先日、ふたたび「路地と人」に、ユタカワサキ「summer in summer」を見に行く。やはり場所が素敵で、渋谷でも銀座でもない、この場所にあることが驚きの一つ。
ボーッと鑑賞。ご本人もいて、ちょっとだけ話を訊く。また、見ている間に色々な方が来て、その会話を小耳に挟む。ちかくにウミガメらーめんがあると聞いたが、本当なのだろうか・・・
 途中、いろいろな妄想が頭を駆け抜ける(生き物みたい、とか、社会批評的に「もがく哀れな監視カメラ」とか)けど、最終的には即物的な理解に。訊くとそれで合っているらしい。個人的には、カメラ本体と、その主観映像を、同時にみているのが不思議な感覚・・・でも、最初は映像はなかったらしいので、これは別に意図されたわけではないらしい。

●ただ、即物的とはいえ、その意味はきわめて特殊な形で突き詰められている、もしくは放置されている。
 さいきん、ある種の人脈に沿ったものばかりを追っているので、なんとなく当たり前になりつつあるけれど、普通の「即物的」というのは、動かない物体が転がっているものではなかったか?ここでは、転がしているどころではない、まさしく放置。しかもここでは事前の仕込みの焦点が、加工や製作ではなくてプログラムにあり、つまり逆にいえば機械や内装についてはほぼ何もしていない。その放置ぶりにビビる・・・何ジャンルのアートなのか、もはや謎。ただシステムと装置、それによるプロセスだけが、即物的に転がっている。
とはいえ、あっさり説明されたけれど、意外にプログラムが細かくて、見ていてまったく飽きない。どちらかというと、その動きと一緒に時間を過ごしたという印象かも。

あと、追加されたらしい映像の部分が面白かったので(しかもその後もパソコンではなく壁に投影するように変更がくわえられたようだ)、なにか機会があったら次のものがどうなるのか、期待があるというのではなく、単純に予想がまったくつかないので、見に行ってみたい気がする。何かもう少し大きいものも見てみたいとか、希望はあるけれど、次に何をするのかはまったくわからない・・・・・・



●ちなみにその場にいた方の会話を聞いていたら、ごく普通の日常として部品を集めたり買ったりしているらしいことを聞く。

 そういえばほとんど批評とかに出てこないけれど、音楽・アートのジャンルを問わず、作家の日常的な興味というのも気になる、というか重要だと思う。人によっては毎日、本を集めている人もいるだろうし、毎日、機械を集めている人もいるだろうし、植物を育てている人も、ゴミを集めている人もいるだろう。そうしたなかから、作品とかパフォーマンスは出てくる。もちろんプライバシーを覗くとかそういうことではなくて、ごく日常的な興味と、作品が繋がっている、その点を忘れると、批評はきついことになりそうだ。あるいは、このところ一気に見た人たちの作品は、どれも理屈よりも、そうした日常的な興味から出てきたものなのかもしれない。あえていうとエンジニアリング的な興味?電源とワイアと機械の世界。作品の放置ぶりと作家の関係は、どうもそのあたりにありそうだ。

 とはいえ、日常的な興味ほど、知りたくてもわかりにくいものはない気もするけど・・・