装置・レコード・創発(5) 素材と多様性、音と音楽

●すでに9月だ、それも下旬。もうすぐアンサンブルズ2010が始まりそうな気配。

●けれど、ここでこだわっているのは、まだ09年の「音楽装置」についてだ。そうしたことに、誰が興味をもつのか、もはや分からない。そもそも意味もないかもしれない。しかし、個人的には、まだそこに解けない謎が残っている。だから、これはあくまで個人的な問いかけと答えに過ぎない。それが、面白いのかも分からない。
 
 くわえて、実はその問いそのものが、まだ明確ではない。何か気になる部分があるが、その決定的な解き方が、わからない。その問い自体が、迷妄であるかもしれない。
 けれど、もうそろそろ時間がない。10年展が始まれば、そこで新たな問題が始まるだろうし、そもそも09年については、単純に忘れてしまう。とすれば、未解決の問いを、そろそろ投げ出す時間に来ている。


●こういう場合は、あらかじめ問題を素描した方がいいのだろう。ここでの問いは、「素材」についてである。「装置」については、多くが作家の関わりや、全体的な構成に議論の焦点が当たってきたように思う。けれど、そのなかでずっと気になっていたのが「素材」の問題だ。実際、装置には様々な素材が使われていたし、何より、実際に音を出していたのは、そうした素材にほかならない。つまり、「装置」について、作家や構成と言ったコンセプト部分からのアプローチではなく、その「音」の側からアプローチする。そのために、「素材」は重要な切り口になるだろう。


●けれど、本当の主題はそこではない。もっと原理的な理解に、つまり「音響」の問題に関わる。どういうことか。
 装置については、多くの場合、それは「音響」的に、つまりアブストラクトな音が飛び交う、という理解がされているように思う。それは、いわゆる音響論においての「音響がすなわち純粋な本質性」「音響がイコール音楽」という議論からしたとき、とても分かりやすいものであるようにも思う。

●しかし、実際にでていた「音」は、はたしてそれほどアブストラクトだっただろうか?むしろ素材がもつ具体的な音・もしくは「素材」のもつ個性的な性格をともなう、きわめて具体的かつ多様な音、あるいは粗雑で雑多な音の群れだったのではないか?それを一括りに「音響」としてしまうと、なにか多くのものが失われるのではないか?

 
●とすれば、疑われるのは「音響」的な理解の方かもしれない。単純に、09年の一連の展示は、決して「『音響』装置」ではなく、「音楽装置」と題されていた。とするならば、そもそも展示における音について、それをアブストラクトで本質的な「音響」ではなく、むしろ素材が出す「単なる音」として捉えるべきではないか。あるいは、まずそのような「単なる音」があり、それら「音」が『音楽』になるための実験装置として試みられたものではないのか。つまり展示を、音響ではない形で、音と音楽との関係を問うための実験のようなものとして捉える必要があるのではないか。

●実際、「音響がすなわち音楽」という論理に対しては、すでにいくつもの批判が出ている。単純に言えば、その論理では、「即興」も「演奏」も抜け落ちてしまうからだ。いいかえれば、それはもういわゆる「音楽」である必要はないとすら言えるだろう。自然音でも、聴取されればすべてが音楽になってしまうのだから。

●しかし上述の議論からしたとき「音楽装置」は、そうした批判に対する別の解答であるように見える。つまりそれは、音響の成果を残しつつ、さらに、あらためて「音」と「音楽」の関係を見直すための実験として捉えられるのではないか。
 いいかえれば、音響だけなら自然音でも構わないのに、なぜ「装置」は必要とされたのか、その理由は、そもそも「音」と「音楽」についての問題の立て方にあるように思われる。さらに言いかえるならその問いは、大きく言えば、そもそもなぜ音楽に即興や演奏が必要なのかという問いに対するアンサーでもあるのではないか。「素材」に注目したときみえてくるのは、こうした音と音響と音楽をめぐるパースペクティヴのように思われる。


●以下は、この上述の議論を、もう少し丁寧に書こうとしたものであるが、基本的に内容は同じである。また、その議論の多くは未整理で、逸脱や飛躍が多くある。けれど、個人的に、なぜ装置が興味深かったのか、あるいは、一方でなぜ(今なお)即興演奏のようなものに興味をもつのか、その手がかりの一つが、ここにあるように思われる。結論を先取りすれば、それは音楽の条件を問うこと、そしてそれによって音楽を別の可能性に開いていくことのようにおもう。その試みと可能性は、まだ続いているのではないだろうか。
 さらに、この問題は10年展まで続いているようにも思われる。素材の多様性(とくに中古品の使用の多さ)、その剥き出しの音、そしてそれがどうやって「音楽」になるかという問い。そこで末尾に、一例として「楕円重力演奏会」を挙げてみた。
この議論は迷妄かもしれないし、個人的なものに過ぎない。その理由は、これで明らかになっただろう。そのうえで、ここに示す理由も示したとおもう。
 では、なんとなく始めてみよう。最初は、「素材」から始まる。


●まず仮説から始めてみる。「装置」をふくめた09年展をとりあえず理解しようとすると、まず考えるのは「音響」というタームだと思う。つまり小さな音がいくつも溢れていて、それが空間を満たしている。いいかえれば「広大な『空間』」を、「アブストラクトな『音響』」が満たし続ける、そうした理解だ。「空間」と「音響」は『MUSICS』の主要テーマでもあり、こうした理解をすれば、作家の趣旨に添っているようにも思われる。この理解を、仮説と呼ぼう。

●しかし、リアルタイムで大友さんのブログなどを見ていると(あるいはもっと前から読んでいると)、どうもその理解はズレているような気がしてならない。その最大のポイントが、音の性質について、あるいは、その多様性についてだ。

●それは08年時点のwithout recordsでもすでに言われていることで、要約すれば「一台一台に個性がある」ということを、繰り返していたように記憶する(「エキス・ポ」の対談でも「一台一台が生き物のように個性がある」旨をいっていた)。同じことは(記憶が確かならば)09年時点のwithoutでも言っていたようにも思われる。

●ではどうしてこれが問題かというと、もし一台一台に個性があるとするならば、上に書いた仮説の「アブストラクトな音響」という理解と、大きく違っているように思われるからだ。つまりその音は、単純にそうした個性を反映したものではなかったか。いいかえれば、純化されたり抽象化されたりしない、多様さをふくんだ生の音の群れだったのではないか。「アブストラクトな音響」と「個体差のある素材」の間には、なにか大きな齟齬が横たわっているようにおもわれるのだ。


●念のため確認すれば、without09では、役割ごとにグルーピングがなされていて、大きく3つか4つの集団に分かれる。集団はそれぞれ「フィードバック」や、「台を叩く」という役割に特化され、それらが空間的に配置されている。
けれど、いま問題にしているのは、こうしたグルーピングではない。そうではなくて、3つか4つの集団とは別の水準で、そもそも100台ちかくのターンテーブルの一つ一つが、すべて異なる性格をもつ、あるいはすべて異なる音を出している、そうしたいわば「多様性」についてだ。

実際、展示を生で見れば、一つ一つの音は異なったものだったと言われて、納得するところが多い。というのは、一台一台がどれもかなりの年代物で、それぞれが異なる破損の仕方、使い古され方をしており、「台を叩く」というグループだけでも、叩き方や叩く箇所もまったく違っている。
つまり、素材に注目したとき、まず確認すべきは音の多様性のように思われる。そもそも「素材」には「個体差」がある。とすれば、音はその個体差を反映していると理解してもよいだろう。素材と個体差と音の多様性。まずこれが第一の論点になる。


●さて、こうやって辿ってみると、どうにも奇妙な結論が出てくる。それは、すでに述べたように09年で出ていた音は、決して「アブストラクトな音響」などではない、という理解、あるいは、むしろ素材そのものの「個体差」がほとんど剥き出しの形で現れているもの、つまり、きわめて具体的な性格を持っているように見えてくることだ。
いいかえれば、会場で響いていたのは、抽象化され純化された「音そのもの」ではないように思われてくる。逆にそれは、抽象化される以前の、固有性に満ち満ちた音ではないか。そうした個体ごとが発する多様な音が、会場に溢れていたのではないか。
端的にいえば、つまりここで、音響の問題と出会う可能性があるように思われる。はたして、会場に溢れていたのは「音響」ではなく、もっと具体的な「音」ではないか。あるいは臓器のメタファーを当てはめるとするならば、その臓器は抽象化されたものではなく、一つ一つの遺伝や来歴によって個体差をもつ、きわめて具体的な臓器の群れではないか。素材が開くパースペクティヴは、こうしたものだ。


●もう少し進んでみよう。ここで思い出すのは「ユリイカ」の大友特集における「音響批判」というようないくつかの文章についてだ。そこでは、言い方は色々あったけれど、批判は一点に搾られていたように思う。つまり、現在の音響理解は、いまや単に音をフェティッシュ化しているだけであり、耳を澄ませばそこに「音そのもの」が立ち上がるというような議論は、袋小路だ、と。
 この批判はきわめてクリティカルだ。つまりいいかえてみれば、この論理のままでいるならば、実際は音が何であろうと関係がないことになる。なぜなら「耳を澄ませば」それだけで音の「音性」のようなものが聞こえてくるはずだからだ。そこでは、演奏として何が起ころうと、何を即興しようと、関係がない。ただ「耳を澄ませば」、自然と(演奏とは関係なく)純粋な音が出現する。この論理で行けば、自然音でさえ耳を澄ませば「音性」が立ち上がるはずであり、とすれば、もうそこに「演奏」など必要ない。こうした批判だったように思う。

●この批判は、論理的におそらく正しい(ちなみに正しいのは論理的、つまり即興の袋小路ということであり、音そのものを聴くという在り方が一般的に間違っているかどうかは別問題である)。もう演奏を必要としないとすれば、そこには即興演奏など、何の意味もないからだ。
 
けれど、上で得た奇妙な結論は、こうした批判の対象となったものとは、だいぶ違うところにあるように思う。繰り返しだが、そこでの音は「抽象的な音響」ではなく、個体差をもつ音の群れだからだ。それは、具体的な演奏からしか生まれてこない。つまり、ある素材と、ある動作がなければ生まれてこない。
いいかえれば、たとえ演奏の主体が機械であったとしても、その音は、「演奏」によってこそ生まれてくるものだ。そこに「音性」のようなものへ抽象化するフィルターは存在しない。とすれば、一連の展示について、批判に対して別の形での反応として見ることができるのではないか。

一度整理しよう。このように、素材とその個体差からアプローチすると、どうも最初に立てた仮説とは違う性格が見えてくるようにおもわれる。会場に溢れていたのは、音響ではないのかもしれない。それは個体差をもつ素材から放たれた、きわめて具体的な音だったのではないだろうか。そしてそれは、ひょっとすると音響批判への一つの応答なのではないか。単純化すれば、抽象性ではなく、個性をもった多様性にこそ注目すること。それによって、あらためて音の響きと演奏を捉えなおすこと。そうした性格だ。

つまり、こうしてみたとき、一連の展示はこれまでの成果に乗っかったものではないように見える。むしろ、さらに続けられている実験/試行として、あらためて捉えなおされる必要があるのではないのか。つまりは「音」をめぐる実験として。



●この議論は、抽象的だろうか?そうかもしれない。音が「音響」か「音」なのか、純粋性か具体性かということに、何の意味があるのか?意味はないかもしれない。実際、会場には音が溢れていたのだから、それでいいではないか。結局、そうした「多様な音」を浴びるように聴くだけであって、その点では同じではないか。あとは、聴く側の問題にすぎないのではないか。
 しかし、もう一つだけ問いを進めてみよう。たしかに会場には音が溢れていた。けれど、そこで立ち止まるべきなのか?実際、展示は全体として「音楽装置」と題されていた。とするならば、さらにそれを単に「音」としてだけではなく、「音楽」との関係で捉えるべきではないか。

●この問いに対する一つの手がかりは、すでに「MUSICS」に示されている。そこでは、杉本拓などの演奏にそくして、音が音である状況から音楽を立ち上げようとする試みとして議論がされているからだ。そこには、演奏がある。そして、たとえサイン波であったとしても、その即興演奏から音楽が生まれてくる、そのことを指摘している(85-86 頁など。実際、杉本拓の関心の一つは、音楽が「音楽」として成立する条件は何か、もしくは、音と音楽の境界線は何かという問いを、様々な角度から検証しているように思われる。その検証によって「音楽」を別の形に変えていこうとするような営みであり、沈黙の多様は、その一つに過ぎないというような・・・が、これは間違っているかもしれない)。
 実のところ、大友さんが最初からそのように言及していたのかは、わからない。けれど少なくとも本の時点では、単に「沈黙を聴く」というような議論とはちがう捉え方が示されている。
 
●とするならば、「音楽装置」にたいしても、そうしたアプローチを取ることができるのではないだろうか。つまりそこには、単に「音」の問題だけでなく、そこから音楽をどう浮上させるか、という二重の問いがあるように見える。多様な素材をつかい、そしてそれを様々な形で作動させ組み合わせることで、未知の音楽を生み出そうとする試み。

 つまり問題は二つある。1)音を「抽象的な音響」ではないものとして発すること。ただしそれだけではなく、2)その音から、音楽をたちあげること。あるいは、そのための条件を問い直すこと。
 いいかえれば、1)は素材の問題であり、2)は、おそらく音の生み出し方と編成や組織化の問題になる。それはつまり「アンサンブル」に関わるだろう。そこで溢れているのは単なる音響ではなく、多様な音、具体的な個性をもつ音がつくりだす音楽である。「音楽装置」は、文字通りそうした「音楽」を生み出す「装置」ではないか。「音楽装置」展とは、そうした二重の問題を抱えた実験場だったのではないか。


●整理しよう。ここでの大きな問いは、「そもそも「音楽装置」とは何だったのか」というものだった。けれどいま、問いは3つに分割される可能性がある。
 一つは、素材と音の問題、あるいは素材の多様性の問題になる。これは素材となった機械や部品の消耗や破損によっている。上では取り上げていないが、それはおそらくネットオークションで購入したという「中古品」としての性格にも強く依存しているようにも思う。
 ふたつめは、その組み合わせの問題、組み立て方の問題だ。そこでは、音がどのような形態で集められているのか、システムが問われる。その一端は、すでに創発性として取り上げてみた。では具体的に「装置」はどのようにアンサンブルが組まれていたのか?
 そして3つめは、そこで、ではいかなる「音楽」が生まれているかという問題、あるいはより広い意味で「体験」の問題だ。もしあの音が「単なる音響」ではないとしたら、観客は何を聴いたのだろうか。いったい、あの場所で、装置の中で、何を体験したのか?アートか音楽かというジャンルではなく、日本的か否かということでもなく、一つの実験として捉えたとき、この問いが欠けたところに議論の意味はない。



●延々と迂回したわりに、そのいずれもについて、ここでは明確な答えは出せない。けれど、最初に立てた「仮説」から、いまはだいぶ遠いところまで来た。展示は、単に「音がたゆたう抽象的な空間」ではないのかもしれない。むしろ具体的な個性をもつ、無数の音が飛び交う中で、音楽が発生する装置として、あるいはそうした音楽が発生する「空間」として、捉えることができるかもしれない。そのためには、しかしより具体的な問いが必要になる。




*この項への注
さる6月6日に、大友良英「楕円重力演奏会」を見に行った。感想はいろいろある(たとえば指揮者で個性が出るのが面白いとか、もっと超スローな演奏も聴きたいとか、あとカードについて、その場で指揮者が新しいカードを作れるようにしたらどうなるんだろうと思ったとか、等々)。けれど、印象的だったのは、全体としてとても楽しかったこと、そしてそれは上に書いた問題と直結する。

 ダブル・オーケストラについては、コブラの延長とか、即興オーケストラとか、市民オーケストラとの関係とか、歴史的な位置づけもできるとおもう。けれど実際にみて面白かったのは、まず一人一人の音がまったくもって違ったこと、あと全体として、実はこれは聴かれることによってはじめて成立していることだ。

まず前者については、プロアマ問わず、というために、まったくもって統制がとれていなかった。あるいは、あまりにも多様だった。そこにはプロとしての訓練を経たような均一化がまったくみられず、その気になれば一人一人の音を明確に聞き分けられるくらいの個体差があった。そして、ホールはまさにその個体差のある音が群として埋め尽くしていた。

そのうえで、何より興味深かったのは、その音楽が、実は聞き手だけにおいて存在していることにある。実際あそこでは、演奏者も、指揮者ですらも、全体がどのような「音楽」になっているのか、音を出している(もしくは指揮をしている)時点では把握できないようなシステムになっている。それはきわめて単純に、オーケストラが二つあること、それも同時に動いていることによる。さらには、オーケストラ内部さえ奏者個々人で自由に即興できるし、しかも実際に大半が個々人の即興で進められていた。つまり、演奏者は音を出した時点では、他の演奏者の音を聞けないし、さらに指揮者も、もう一つのオーケストラがどう動くかは把握できない。とすれば、全体の「演奏」は、客席で見ている観客だけが把握していることになる。裏返せばここでの演奏は、観客が聴くことによって、はじめて成立している。

実際、生でみると、この二つの要素が相俟って、臨場感は生半可なものではなかった。しかも客席の位置によって明らかに聞こえる演奏に違いがあり、つまり自分に近い側のオケははっきり聞き分けられるが、遠い方は目の前のオケをすかして、壁の反響とともにうっすらと聞こえてくる。これは、原理としてはわかりやすいが、実際には「いま聴いている演奏は、いまここでしか(この位置・この瞬間でしか)聴けない」という切迫感めいたものがあり、生の感覚というようなものに襲われた。極端に言えば、自分の中で一つの音楽が発生しているように感じられたといってもいいし、それはおそらくあの会場にいた人々全員が同じ状況にあり、あの演奏は、あそこに立ち合った人々の中で、はじめて出現したのではないか。


これは、繰り返しだけど上の論理と同じ部分があるように思う。音楽は、聴かれることによって成立する、それは当たり前だ。しかし聴かれるものがすべて音楽になるわけではない。単純に言って、聞こえるのは単なる音にすぎない。音響批判は、つまりそうしたことを指摘していたのではないか。むしろそのうえで音楽になる条件を、もしくはその境界線を、あらためて実験的に問う必要があると。

ダブル・オーケストラは、そうした問いへの一つの応答のようにも見えた。コブラや即興オーケストラとは似て非なる性格があった、あるいは、何かアクチュアルな問いがあったのではないか。それは、ひょっとすると音楽が発生する場のようなものをつくり出すことであり、少なくともそのための実験場という意味でワークショップだったように見えた。
もちろんこれは妄想かもしれず、無理矢理な理解かもしれない(ちなみに具体的な感想としては2セット目に入って、なんとなく聴く側も演奏側も疲れてしまったような気がして、何か困ったりした。一方、とても楽しい感覚があったのは、一度に多様な個性を直接浴びながら、音楽が生まれてくる臨場感があわさったところにあったようにおもう)。また、そこでどのような「音楽」が生まれていたのかについては、はっきりとは分からない。
とはいえ、実のところ、この問題は回想するものではない。むしろこれから起こることの可能性に繋がっている。とすれば、問いはそちらへ延長される必要があるだろう。