装置・レコード・創発(6) いくつかの境界線について

●うーむ、どうやら2010展はすでに始まりつつあるようだ。とすると、もうここに長々と書いている意味はないのかもしれない。
●そもそも誰が読んでいるのかもよく分からない。前回、ちょっと思い切って音響批判とか書いてみたが、即興に興味がある人は、そうした議論については一体どう思っているのだろう?実はそのこと自体、ほとんど分からない。
 

●と思っていたら、前回のアップ後に「うわ、もう始まっているのか!」と思って、はじめて水戸のホームページを見たところ、宣言文に、前回書いたことと似たようなことが書かれてあった・・・これは証明しようがないが、決してパクッたわけではなく、その文章を見ないままに、前回の文章は書かれた。つけくわえれば、その内容はあくまで個人的な謎を書いただけであり、10年展について、何か無理矢理に文章をねじまげようとする意図があるわけでは全くない。


●逆方向から証明を試みれば、10年展の文に示されている冒頭の2行は、驚くべき内容になっていると思う。「空間に音を出す/それが音楽になる」とあっさり書いてあるが、09年時点を思い出すと、この2行には、何か理論的に驚愕するほどの飛躍があるように思われる。
●さらに、「音楽家の役割は前者だけで、後者は聴く側の問題」とほぼ断言されており、この断言ぶりは尋常ではない。というのは、普通に言われる音楽家とは、「音楽をつくるひと」のはずであって、「音」と「音楽」の間に断絶があるなどとは、多分一般的にはおもわれていないように理解する。むしろ、このわずか冒頭の2行に、現時点での作家の意図が圧縮されているようにおもわれたし、この2行に、とりあえず驚いた。



●・・・こんなことは誰も話題にしていないようだし、その意味で驚きは、やはりあくまで個人的なものに留まる。
 ということで勝手に、あえて(さらに)迂回すれば、『「音」と「音楽」の間に境界線を見る』というのは、ものすごく面白い論点のように思う。そこで、あらためて重要そうなのは、たぶん『MUSICS』という本だ。
 というのは、この本がどのように読まれたのか、どのような書評が出たのか、個人的な記憶が薄く、あまり分かっていない。
 けれど、最近になって読み直していたら、今さらながらにこの本の主題が、「音楽」の成立条件を問う、あるいは「音」と「音楽」の境界線を揺すぶろうとしていることであることに、ようやく気づいた。そういう書評があったかどうかわからないが、今こそ面白いと思うので、メモ的にまとめてみる。
 

●ようやくというのは、買って一読したとき、既読の文章も多くあったし、また章ごとに独立して読んだりしたために、最初から通読したことがなかったからだった。また文章も極端なまでに平易で、あっさりと読み流しがちになる。
●けれど、序文を抜かして1章から読んでいけば、実は主題として、「音楽とは何か」という疑問が一貫していることは明らかだ。
●何しろいきなり取り上げられるのは「ノイズ」であり、しかもそこで言われているのは、「実は普通の「音楽」も、聴き方でノイズになる」ということ、つまり、一般的に想像される「音楽」は、条件によっては「音楽」でなくなってしまうということが言われている。いいかえれば、音楽が「音楽」になるには様々な条件が必要であり、一歩間違えばノイズになってしまう境界線に囲まれている。その境界線を越えると「音」が「音楽」になる。
 そこでこの本の主題が見えてくる。つまり、それでは、その境界線とは何か?それは一つなのか?その境界線を変えることは可能なのだろうか?そうした問いになるのではないか。


●そして続く章は、実際にその問いを、さまざまな角度から検証し、ゆすぶっていくことだとおもわれる。たとえば映画では、映画音楽でも映画自体にもほとんど触れておらず、そこで焦点が当たるのは、そもそも現実に聴いている(と思っている)音は何か、ということを音響/編集に即して論じている。そこから音響をめぐっては逆に非楽音からどうやって「音楽」になるのか、という主題が論じられ、聴取についても問題がひろげられる。


●そこから、ジャズについてはまったく別の角度から、つまり「歴史」の問題として、「音楽」足りうる手法の問題や、そこで自由になるための模索や可能性が論じられる。さらに、うた、では、反転してそれだけで音楽が成立する最低条件としての「うた」が取り出されており、うたがあればノイズだろうと何だろうと「音楽」たりうる可能性が議論される。そして空間では、まだ出現したばかりの問題としての空間性や社会/集団のような問題系が取り上げられる。



●こうやって読んでみると、この本の主題が、いってみれば「音楽」の境界線はどこであり、それを揺すぶると「音楽」はどう変わるのか、という問いであることが分かってくる。

●このとき、やっとタイトルの意味が明らかになるだろう。つまり、「音楽」を音楽たらしめている条件はひとつではない。それは複数の、あるいは無数の境界線に囲まれており、そしてそれらを一つずつ、ちょっとずつ押してみることができる。そうすれば、そのたびに「音楽」は、それまでと違った姿を現し、見たこともない形として浮き上がってくる。だから、その境界線をあちこちの角度から押したり退いたりするこの本を通して、「音楽」は無数の形へと姿を変える。少なくとも、そうした無数の未知の音楽を目指したこととして、複数形の「MUSICS」があるのではないか。

●こうやってみると、どうもそれぞれが重要なテーマを扱った章タイトルのなかで、欠けているものが二つあるように思える。ひとつは、ずばり「音楽」だが、それは上に見たように書名にしめされていた。
 もうひとつは「即興」である。この本は一貫して即興演奏について書かれているが、実はそれがまったく前面に出てこない。しかし、どう読んでもこれは即興演奏についての本だ。とすれば、音楽を複数形に変化させる、その原動力として、つまり見えない主題として、即興演奏が背後にあるのではないだろうか。いいかえれば、どうして即興演奏が今なおあるのか、という答えの一つが、音楽を複数形に変えることとして、この本を挟み撃ちにしているようにおもわれる。



●どうしてこんな感想を長々かくのかといえば、その主題に気づいたとき、あらためて新鮮に思えたからだった。というのは、この本でほとんど出てこないもう一つの言葉として、「前衛」があげられるだろう。
 おそらく、ある時期まで、即興的な音楽は、「実験的」であったり「前衛的」であったり、やわらかくいえば「最先端」といわれていたのではなかったか。けれど、色々な意見はあるだろうけれど、時代の変化と共にそうしたことは、最近あまり言われなくなったようにおもう。
 その理由は、即興音楽が価値を失効したのではなく、むしろ前衛や最先端という概念の方が、アクチュアリティを失ったからではなかったか。実際、前衛はもともと軍事用語だが、この10年の戦場でわかったのは、そもそも前線という概念がなくなり、前衛の兵士のその前に、コンピューター管理されたミサイルが先行していることだった。前線の兵士が辿りつくのは、標的とされた場所が廃墟になって2,3日を過ぎてからだ。前衛は、情報化したシステムに追い越されてしまった。


●そうしたなかで、この本は、あっさりと別の形で、けれど可能性を広げるような書き方がされている。実はそのことが、ある意味でもっとも驚くべきことだ。新しいモデルとまでは言わないけれど、「前衛」のような既成の概念によらずに、創造的行為を論じるにはどうするか、その一つの示し方のようにもおもわれる。

●実は、ここで「境界線」といった言葉は、本の中では明示されていない。けれどとりあえずそれを境界線と呼んでみる。「音楽」はけっして明らかなものではなく、それ以外のものとの境界線に囲まれている。それは様々な形で動揺させうるし、それによって未知のものを生み出すことができる。そしてこの本に示された論点は、そうした未知のものを生み出すために発見された境界線の、ほんの一部にすぎないのだろう。とすれば、とりあえずこれを一つの手がかりにして、大友良英という音楽家が示した以外の、様々な境界線をみつけてみるのも、やっぱり面白そうだ。


●冒頭に戻れば、音響的即興といわれたものは、ある意味でリアリティを失ったらしい。けれど、どうやらまだ何も終わっていないようだ。しかも、010年においては、音を音楽にする役割は、聴く側に委ねられて、新しく始められるという。ということは、つまり何も終わっていないようだ。