装置・レコード・創発(まとめ1)二つの問題と二種の空間について+

●季節感が全くない。秋は何処へ行ったのだろうか・・・と去年も書いたような気がする。ちなみにこのページの壁紙は、秋を懐かしむつもりで紅葉にした。3年位前から同じだから、たぶんそのへんから秋がない。


●誰が読んでいるのか知らないが、このところ続けてきたシリーズの「まとめ」と言うものを書こうとして、時間と体力が見つからずに煮詰まる。

●なんか評論みたいなものを試みてきたけれど、やってみるとやはり大変だなというのを実感。一つのアイデア、一つの論理にくわえて、もうひとつ、充分なリサーチが必要だ。少なくともあるものを位置づけるに充分な文脈のための、実地検分を含めたリサーチ。たとえば、続けているシリーズの場合は、「音/音楽/アート」の境界線を彷徨っているような作品群、とくにある種のサウンド・アートやフィールド・レコーディングについてのリサーチがかなり必要であることが、やっと分かってくる。

●とりあえず簡単にまとめてみる。これまで切り分けてみて、たぶんアンサンブルズ09には、まったくちがう二つの問題があることに気づいてきた。つまりひとつは集団性(即興性?)の問題と、もう一つには、「音/音楽/アート」の問題というか、「作品(群)音と都市ノイズのアンサンブル」という音をめぐる問題がある。前者については、創発の観点から見てみた。後者については、多様な素材を使った作品の音と、さらには周辺環境としての都市音とのなかで、その場で生まれる複雑な音/音楽がある。おそらく「装置」は、この二つの問題を、同時にみていかないと、よくわからないのだ。

いいかえれば、装置は、こうした二つの問題系によって構成されている。唐突なこの断言に不安を覚える方がいるなら、あえてつけくわえれば、この二つの問題系は、おそらくアンサンブルズが初めてではない。つまり、大友良英のいくつものプロジェクトに一貫して見られるということができると思う。たとえばグランド・ゼロでは、カットアップ(音/情報/音楽)とフリージャズあるいはロックバンドの組織論が、ONJOでは音響(音/音響/音楽)とオーケストラの組織論というかたちで、いずれも一方に音/音楽の問題があり、他方で組織論がある。アンサンブルズは、そうした二つの問題系を、ある意味で引き継ぐ形で進められていると理解することもできるように思う。
逆にいえば、こうしてみたとき、なぜアンサンブルズが毎年開催されるほどの企画なのか、その重要性がみえてくるかもしれない。それは、単なるお遊びではなく、おそらく本気の企画なのだ。

●いずれにしても、こうやってみてくると、アンサンブルズは、単に「ミュージシャンがアートに手を付けた」というようなものではなく、かなり強固な、固有の問題を認めることができる。この文章のシリーズは、「そもそも装置は何だったのか」という問いから始めた。とすれば、こうした理解を得られたことで、その問いに、一つの形を与えることができたように思う。つまりこの展示は、音とアートの関係、集団組織論とアートの関係という、二つの問題を、具体的に解こうとした試みだとまとめることができるだろう。


●しかし、実は答えはここでは終わることができない。なぜか。この答えから、もっと大きい問題が出てくるからだ。その問題は、実は上に挙げた二つの問題系が、そもそも別個に存在できるというか、お互いが関係ない問題系だということである。別にこのふたつが関係する必然性はまったくない。というか、普通は別々に立てられるものである。では、なんでこの二つが交差するのか?というか、そもそもどうして、この二つが交差できるのか?いいかえれば、二つの問題系が具体化されるときに、どういう形でそれが支えられているのか?

●即座に答えを出そう。その答えとして用意されているのは、一つには、どちらもアンサンブルであること(集団性=アンサンブル、作品音と都市音による音/音楽=アンサンブル)である。だが、もうひとつ、たぶんそれを支えるものがある。それは、おそらく変てこりんな空間性だ。

変てこりんというのは、たぶんこの空間が、普通の「空間」(つまり壁で仕切られて、天井と床があって・・・というようなもの)ではなくて、いわゆるフィールド・レコーディングでいわれる「音響空間」(R.M.シェーファー)のような性格を持っていると思われるからだ。

つまり、フィールド・レコーディングでの空間は、「マイクが拾える範囲すべて」であり、それは建築的な基準とは全然ちがっている。そこでは、たとえば飛行機の音が上空から聞こえてきたら、密閉された部屋にいたとしても、「空間」としては上空までふくんでしまう。つまりふつうの視覚的な空間と、音響空間は、まったく別の範囲や、別の秩序を持っている。単純に、壁や窓についての理解が、まったくちがうし、音は360度いたるところを飛び回っており、あるいは混じり合っている。

 そして「装置」の空間は、おそらくこの「音響空間」的な空間性を前提にして成立している。だから作品は一つでは完結せず、最初から集団として存在するし、聞こえてくる外部の音もその展示に含まれてしまう。もちろん、実際の作品は、物理的な/建築的な空間におかれている。けれど、そこでの展示の仕方は、あるいは展示の秩序は、通常の意味での展示空間とは、全く別の秩序に従っている、もしくは別の秩序を作りだしている。なぜなら作品は、目で見える空間とは別に、音響空間においても機能しているからだ。いいかえればそれは、目で見える秩序とは別の、音響的な秩序をなしているといってもいい。


●そしてこの空間性をみれば、二つの問題の交差がわかる。一方で「音/音楽」の問題系があり、同時に、「集団性」の問題が両立しうるのは、この特異でへんてこりんな「空間」性にあるのではないか。つまり、どちらも音響空間上の問題として、そこでの出来事として、二つの問題系が交差するからだ。おそらく、「装置」のある種の特異性は、この空間の特異さにある。
 すなわち一見「視覚的」におもわれて、実はその空間には、別種の(音響的な)空間が敷かれている。というより、もっといえばその音響空間的な性格が、視覚的な要素をも含み込んで、展示構成にまで影響していたのではないか。

 実際に展示を思いだしても、それはきわめて流動的な配置だった。そもそも作品を仕切ろうとする意図自体がなかったし(というかそもそも誰がどの作品を作ったのか明示されてさえいなかった)、あちこち繋がってさえいた。いいかえればそれらの秩序は、通常の展示空間に対して、音響空間的なものをぶち込んでいるからではないか。つまり美術(館)的な区切られた空間ではなく、もっと流動的で開放的な別の空間性を導入している。
(だから、たとえば椹木野衣さんの「BT」のレビューは、アイデアとして逆だと思う。いくつかの作品があって、その間を歩く、というのは、通常の美術の秩序に従った見方であり、実際はむしろ最初から様々な要素が行き交う流動的な空間の中に、いくつか重力源というか気圧のように匿名の作品があって、観客はその圧力の間をすり抜けるごとに別の重力に引き寄せられていくのではないか。いわばいくつも磁石を置いたうえで撒き散らされた砂鉄のように、会場内を引き回されていたようにおもう。おまけに作品はいつも動いているわけでなく、つまり常に各種の磁力が変わると考えてみる)。


●・・・ということで、遂にここまで来るとようやく「体験」の領域に入りつつ、まとめることができるかもしれない。そこには、視覚的な空間と、音響的な空間が、せめぎあっている。たぶん観客は、この二つの空間を、より正確にはふたつの空間の秩序を、常に切り替えるような形で体験させられているのではないか。つまりあるときは視覚的に作品を認識し、あるときは(背後の作品を含めて)集団として音響的に認識する。さらにそれが都市ノイズや他の観客まで含み、それぞれに対して、そのつど反応させられる。
 
●おそらく、これがある意味で最も過激に展開したのは、装置よりも「余韻ギグ」だったようにおもう。そこでみられたのは、おそらく「既成の」といっていいだろうアートの展示がおこなわれた館内で、アンサンブル参加者が、そこにある視覚的空間にたいし、音響的/流動的空間性をもちこむことだったようにおもう。
 とくに、最後におこなわれた屋外からのフィードバックは、壁を通過し、窓を(音響的に)ぶちやぶって、「アート」が展示されていた館内に侵入し、急速に秩序を解体再編していた。経験としては、「作品」を独立させている枠組みが溶けていって、建物と一体化してしまうような印象を受けた。まして、背後に巨大な窓ガラスを背に、フィードバックや屋外の音に超高速で反応して(よくわからないが、そう見えた)サイン波の即興をしていたSachiko Mの部屋では、もはやどこからが作品で、どこまでがインテリアなのか、そもそもどこに演奏者がいるのかさえわからぬほどの異常事態が発生していた。
 
 なぜこれが話題にならなかったのか不思議なほどの事態だけれど(どなたかのブログで、大友さんに関係者が注意しに言ったという言及を見たので、そのせいかもしれない)、たしかにその事態は「大友が会期最後に、会場を支配している」といえそうでもあった。けれどむしろそれは、単なる「音」が、しかし音ゆえの特性によって、既成とはちがう秩序を導入したからではないか。(もし実際にあったとして)注意があったとしたら、それは爆音だからではなく、その音自体が持つ別種の性格によっているように思う。(ちなみに、屋外でのフィードバックコンサートは最近も試みられているようだけれど、それをあえて屋内から聴いてみる、というのは、意外におもしろいようにおもう)



●ということで、このように、ようやくまとめのところまで辿りついてきたようにおもう。二つの問題、それを支えている特殊な空間、その間にいるという体験。なにか、本当に評論ぽくなってきた。
・・・で、何が言いたいかというと、とはいっても、「音響空間」についてちゃんと調べるのは大変とか(笑)、調べる時間と体力がないとか(笑)、そういうことなのだった。
 とくに、フィールド・レコーディングは「レコーディング」による「サウンドスケープ」の構築が主眼であり、その点で、この議論とずれがある。けれど、その概念自体は「視角的空間」にたいする聴覚的な空間の復権を意図していて、その意図自体は、ここでの文脈と一致する。さらにいえば、うえで体験について「切り替わる」と書いたけれど、それは音においても切り替わる、つまり目の前の作品→背後の作品→周辺全体の音、と自由に把握する空間は切り替わっていく。なぜなら、耳はマイクロフォンではなく、生体的に反応するからだ。とすると、なおさらフィールド・レコーディングとの距離が重要になる・・・

 ほかにも、この音響空間って、さいきん文庫化されてる「千のプラトー」で「条理と平滑」の美学モデルとしていわれる「光学的空間」に対置される「触覚的/把握的空間」に近い、とおもうのだけれど(光学は仕切られていて、把握的空間はそうではない秩序によっている)、そういう理屈をとりあげるのも面倒だとか意味があるのかとか。そしてつまりは、もしこのように理解できるとして、こうした試みについての広いリサーチに基づかないと、議論としては一般性がないとか、そういうことなのだった。

●まあ、そもそも対象がサウンド・アートなのかどうかさえ分からないところから始めたのだから、その文脈が見え始めたというのは、個人的には一つの成果であるかもしれないけど・・・などなど、寒暖の差も激しいし、風邪気味だ〜。
 


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●・・・ということや、その他、いろいろ疲労し、もう頭が真っ白なときこそ、行ける時間に行っておけということで、いきなりアキバタマビ「オカルトテクニクス」に行ってみた。全体の雰囲気は、なんだか一年中、学園祭をしているような雰囲気?あちこちの部屋でいろんな展示が行われていて、いきなりビビる。人がいてもいなくても、なんだか賑やか。

●内容は・・・素朴な意味で、「テクノロジーを前提」にした展示に驚き。つい数年位前までは、どうにも「テクノロジーが前面」という印象を持っていたけれど、それがなんとも驚くべき勢いでひっくり返された。完全にデジタルを基盤にして、そのうえで、テクノロジーとは別の部分で勝負を仕掛けてくる。そのことに、まず素朴に吃驚。

●ということで、評論もどきはやめてバカみたいな感想だけ。まず、タイトルがおもしろい。あと個別には、毛利悠子の「相模湾大水槽」が、意味が全く分からない・・・「ワンデイダラス」「ホリデイビキニ」の拡張版のようにみえたけど、そもそもそっちのタイトルも意味がわからない・・・わからないので、たぶん放置するのが正解と理解。

●とくに印象深いのは、説明を受けた津島岳央「石のみた夢」は、作家さんに直に説明を受け、ハードコアな背景と、見た目にビビる。おまけに、この作品は、実際に見ないと価値が分からない。
 深い説明を受けたのになんだか浅い感想ですが、面白かったのは、シンボルとかテーマまで表現していて、しかも、実際の作品として、静物(具象)なのに、分解されて粒子化した部分はほとんど物質的な感覚があったこと。つまり絵画とおなじことが、デジタルでできてしまっている点が感銘。

●もう一室は、毛利さんのデカい展示もあって、なんだか凄いことに。もう何もかもが分からないので、勝手にベストポジションを探すと、ちょうど機械化された目と耳の作品と向かい合い、爆発−固定された(らしい)作品を左にみた、壁際の位置。ここに立つと、なんとなく点々と置かれていたような展示が、一気に空間的なまとまりを獲得して不可解な秩序をつくりだす。
 頭上ではロールが回転し、センサーが静かなリズムを立てるとあちこちで動いたり音が鳴り、それを向かいの機械の目と耳が反応して、まるで機械の異種接近遭遇が実現中。そしてその脇の壁では、固定された偶然性が、矢に刺されて爆発し続けている・・・


●なお、ひとつだけ素人的に気になったのは、かなりの作品に、明瞭に「中心」があったこと。それも真ん中に置いてある。しかも、実は全部、男性の作家の作品に見られた。なぜか・・・まさか、古典的なジェンダーか?とか思ったけれど、たまたまかもしれないないので、良く分からない。ひょっとしたら古い「中心の構図」が、これから別の形で捉えなおされていくのかもしれない。素人ですみません〜。
 とにかく、テクノロジーを前提として、当たり前にふまえて作られている作品をみることができて、どれもかなり飽きず。


●あと、実はちょうど見に行ったのが夕刻で、ちらりと毛利さんがいるのがみえた。けどすぐどこかへ行ってしまい、今度は忙しそうだった。で、一服してから、今こそ話を訊こうと思っていたら、どうやら水戸への買い出しに行ってしまったらしかった。

 しまった・・・実は、最大の弱点はリサーチ不足もさりながら、人見知りなこと、というか受け身な客なことだった・・・うーん、明日シンポみたいのがあるらしいが、そこに行ったら話が聞けるのだろうか?でも、そのための体力があるのか?
 そんな秋。