・・・補・付記

●すでに終わったはずだったけれど、一度、読み返してみたら、なんだか終わらせることに精一杯で「つまり何が言いたいんだ?」みたいな文章になっていた。ので、最後に付記。これで本当に最後。


●で、まあ色々と書いてみたけれど、簡単な問いから、かなり複雑で色々な問題を見つけたように思う。多くの人にとっては当たり前なのかもしれないが、個人的には当たり前ではなかった色々な問題。
●で、つまり何が言いたかったかというと、そういう様々な問題をすべて込みで(最後に解散したところまで含めて)、アンサンブルズ09の試みは評価されるべきなんじゃないかということ。たしかに、未解決の問題もあるようにも思うし、すべてがすべて、革新的かどうかは分からない。
 けれども、細かく見ていっても色々な試みをしているように思われたし、音楽とアートのあいだで、因習的な境界線を破壊しているようにもみえた。というより、単に破壊しているだけではなくて、未整理かもしれないけれども一つの新しい秩序のようなものを作りだしていたように思う。
 
 そうしたことをすべて込みで、評価されるべきではないか、というのが結論でした。そのことを書き忘れてた。


●あらためて全体をふりかえると、一番、興味深かったのは、09年展全体を通じて「東京に闘いを挑もうとする」ようにみえてきたことだろうか。とはいえ、闘いといっても、資本主義に正面衝突するとか、それを全面的に転覆するとか、そういうことではない。
●(6)の回でも書いたけれど、そもそも、現在において闘いの「前線」はとても見えにくい。というか、ほとんど見えない。もしくは、前線としては存在していないように思う。たとえば、かつてならば「前線」は明確に、労働の場所として目に見えたようにおもう。たとえば工場があって、そこに労働者がいて、それを管理する経営者がいて、出資する資本家がいた。その場合、「工場」は明確に前線だっただろうし、具体的に目に見えた。
 けれど、今の東京は、そうしたものが見えにくい、もしくは明確には存在していない。すべてが消費社会に覆われていて、生産者がそのまま消費者に回ったり、工場というよりもサービス業が前面化していて、対立の契機はほとんど見えない。あるいは資本家でさえ、いまは一寸先は闇の状況におかれている。つまり、前線というほどの明確な場所は、ほとんどない。

●けれど、にもかかわらず、そうした「消費」だけの東京でいいのだろうか?そこに何かの亀裂、もしくは何かの刺激はありえないのだろうか?あるいは、そうした消費の論理一辺倒で、いいのか?
●そうしたなかで、ではどうするか。複数の場所で、消費の論理に即しながら、すこしちがう場所をつくること。あちこちで、匿名の集団によって、何かを創造していく。それによって、東京に少しでも何かの変化を引き起こしてみたり、あるいは何かを創造できることを証明してみせる。
 アンサンブルズ09の全体を通してみたとき、そうした試み、そうしたある種の闘いの試みのように思われた。だからボランティアなどもすべて含めて、マネジメントもすべて込みで、その全体がアンサンブルズとしてあったのではなかったか。最後に強調しておくとすると、この点かもしれない。

●ちなみに、こうした点から見てみると、やっていることはかなり違うけれど、kaikaikikiのような試みと、問題意識はかなり共有しているようにもおもう。つまり、資本=消費の論理が席巻するなかで、アートや創造は、どのように行うべきか。そうした問題。ただ、とはいえ向いているベクトルが、kaikaikikiとアンサンブルズ09ではほとんど真逆のようでもあるし、内容もだいぶ違うから、まとめてしまうのは無理があるけれど。
●そのうえで、あらためていえば、マネジメントも含めて場=スペースを作り維持する組織の試みというのは、決してアートからかけ離れたものではないし、またそのような意味で評価されて然るべきのようにも思う。
 
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●内容についてはこれくらい。長くかかってしまった・・・なんと一年ちかい。えーと、行きがかりで、何か批判めいたことを書いてしまいましたが、前提として誰かを批判することが目的ではありません。また、とくに野々村さんのレビューは、それがなければ、そもそも考えはじめることさえしなかった。ですので、これからももっと続けてください。応援しています(とくに予告されている毛利さんの3つの個展とか、あと「天狗と狐」論とか、さっぱりわからないので、期待して待ってます)。
 えーと、誰か最後まで読んでくださった方がいたら、適当にコメントとかメールとかもらえれば、即座かどうかは別としてリアクションするんでよろしくお願いしまーす。できればあまり怒らない文章がいいな・・・・・・


●最後に、個人的な感想を。
ずっと一貫して、客という立場で書いてきた(ちなみにプロフィールの名前は、アナグラムというかハンドルです。なんとググってもまったく引っかからない!)。
で、客というのは、ありふれているけれど、実は特殊な立場だ。金持ちでも、お金がなくても、知識がなくても、専門家でも、「客」の立場におかれれば社会的経済的状況は関係がない。その場で、何を体験したか、ただそれだけが重要。ある意味で、あとは言葉遊びだ。

●で、実は個人的には、けっこう昔から現代美術に興味があった(前にいつか書いたが、MOTにキュレーター資格の実習に行ったことさえある。美大生でもないのに)。そのために、多少は文献を読んだし、理論もある程度おさえた、というか押さえないと分からない作品が多すぎるので、分かる範囲で。だから変成態とかも意味分かります。
 
●だけど、ある時期から、なんとなく展覧会から遠ざかってしまった。その理由は、良く分からないけど出てくる作品の多くが、なんとなくアカデミックな理論の謎解きか、あるいは当時はやっていたPC(政治的な正しさ)か、そのどちらかにしか見えなくなってしまったのだ。
それが、年齢のせいなのか(つまり頭でっかちの若造ってことですね)、何か別要因なのかは分からないけど、つまり元ネタがわかれば(アカデミックな問題か、もしくは社会的な問題か)作品を見なくても良いじゃん、みたいに思ってしまったのだった。だったら、論文を読むか新聞を読むかして、作品はネットで見れば充分である。正しい状況把握かは別として、そう短絡した。

●で、何が言いたいかというと、その状況認識が、だいぶ間違っていたことに、この一連の展示を見て、気づいたのだった。もちろん、大友良英ファンというのはある。あるけれども、実は、実際にみるまではかなりナメていた。アートはけっこう敷居たかいぞ、みたいな感じだった。

が、その予想は凄まじい勢いで外れた。Without recordsの完成度の高さに驚き、それがターンテーブル自体なのか照明による効果なのか判然としないが、なにかインテリア・デザインと音楽と美術のあいだのような、でも単に足し算ではない部分もあるようなところに驚いた。さらに、どうやらそれは大友さんだけの力ではなく、何かもっと変な想像力を働かせている人たちがいるらしいことに気づいた。たとえば、それまでなら「ジャンク・アート」みたいに一括りできそうな素材を使っているのに、しかし根本的にちがう意識でつくり出されている作品みたいな機械があった。
「あれ、ジャンクっぽいけど、ジャンクじゃない。というかドロドロしてない。破壊してない。コレはなんだ?」というような。何だか分からないけど何かの秩序を作っている作品があった。おまけに、作品同士が繋がっていたり、屋外なのに音を出していたり(つまり反響しないのに音をだしている)、なんだか謎が広がりはじめた。
 それは番外のSachiko M/filamentも同様で、とくに前者は、何の完成度かはじつは分からないのだが、完成度が高いことだけはわかった。あまり確かなことは言えないけど、たぶん海外でも(もしくはその方が)通用するような気さえする。日本だと、とかく評価が「デジタル」「サウンド」「インスタレーション」という括りばかりが先行してしまうような気がする。でもそうじゃない何かがあった気がするのだ。

 いずれにしても、そういう謎をもつ展示にであってしまった。


●ということで、どうなったのかというと、つまり僕は、展覧会に行きはじめた。それも、09年展が終わった後も。それは、ひとつには個人的な問題の新しい展開だ。なぜ、これまで、ある一定の熱量をもって議論のようなことをしたかというと、ひょっとしたらこうした個人的な問題によっているのかもしれない。
 
●けれど一方で、単に個人的なストーリーではない。そうではなくて、わかってきたのは、どうやらかつての状況認識は錯誤だったらしいことだ。つまり、それぞれ独自の問題を抱えていたり、独自の感覚を持っている人がいて、まだまだ何だか分からないものを造っている人たちがいるらしい。これは僕個人の問題から離れて、もっと広い意味で、どうやらそういう状況があるのだと言うこと。
 
この結論は、正直かなり驚くべきことだ。まだなんだか分からないものが、ごく普通のようにあるらしい。どうやって理解して良いのか分からないものに直面して、困ってしまう可能性が、単に古典的な歴史上の出来事だけではなくて、現在や、これからにおいてもあるようなのだ。じゃあ、そこに行ってみるのも面白いかも知れない。だから、この問題は、もはや、過去にあったひとつの展示についてだけの問題ではない。むしろこれからのことがらだ。

●そして、つまり、何だか分からないものに直面するということは、ある意味で、本当に単なる「客」になることでもある。誰もまだ評価できない、まだ判断できない、何かに直面すること。
 そこでは、社会的立場も経済的状況も関係ない。かといって、素で直面するわけでもない。妄想と論理のあいだで、予想と短絡の狭間で、自分の体験を処理しなければならない。間違いは、あとで直せばいい。もういくらでも直しちゃうよ。

でも、その前に実際に行ってみてみないとわからない。ふつうの客として。
 
 言葉遊びは、そのあとだ。




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