実験:ただしナーバスであるより、せめてナイーブであること

はーひっひふへっほほ〜〜♪

寒くなってきましたな〜。とはいえ、例年1月って、もっと寒くなかったか?なんか今年から「平年並み」の基準が変わったというのを小耳に挟み(たしか年号が繰り上がって基準が最近のになった)、もう何が平均なのか分からんぜよ〜。

ちなみに、他にも分からないことは、毎月、報道されるたびに変化する支持率で〜。
逆に、報道されてないと思うのは、エジプトもそうだけど、あと去年1年間の自爆テロによる死者数(軍人除く)。できるだけ正確に知りたいけど、全然ニュースで、やらないの。ゼロだったら良いのだけれど。でも絶対ゼロじゃない。去年というか、「いま」のことだぜ?
 

 そんなこんなで、休憩中に、ふたたび一息〜。



●で。休憩中の合間をぬって、さる先月20日に、ループラインにて、「実験音楽レクチャーシリーズ」に行く。
 感想としては、とても、充実。変な言い方かも知れないけど、予想以上に充実。面白かった〜。
 といっても、実はその感想を書こうとしたら、なんだか長くなっちゃって、一旦カット。というか、たぶん今後のんびり考えたりしていくうちに、何か分かったりするかもしれないような、そんな中身。
 濃すぎる。濃すぎて、途中で空腹に(笑)。めし喰っておけばよかった〜。


●とりあえず備忘録的に書いておくと、じっくり3時間近く。トークと議論があって、そのあと演奏。
 で、トークも抽象論じゃなくて、具体的な作品に即した内容。あんまりその価値が分からないんだけど、スギモトタクの自作解説って、ひょっとしたらそれ自体が結構スゴいんじゃないか(笑)。しかも、ひょっとして近年の新しい関心を中心に話してもらったのかも?なるほどそうなのかー、という感想。

 しかも、そのあとに演奏があって。驚いたのは、やっぱりただ話を聞くのと、全然ちがうんですよね。というか、「なるほどこういうことかー」というのと、「うわ、話した内容以上のことやってる!」という、両方の感想があって。つまり、なんと話を聞いても、作品/演奏がわからない(笑)。
 でも、これ結構すごいですよね。当然といえば当然なんだけれども、解説と実演で差がある。むしろ、それがすごく面白いというか、「つまり何なんだ?」とあらためて思ったというか。やっぱりナマでみるのは面白いー。

●あと、とりあえず思ったのは、ココの人たちは、やはりとてもコワいですね(笑)。なんとなく分かってはいたけど。
 というか、一見するとフザケているようにさえ見えるところもあるんだけど。でも、たぶんフザケていることと、適当にやり過ごすことは、全然ちがっていて。実はフザケることすらマジでやっている節があるっぽかった。今回は、そのへんでちょっと抜き身の刃を見せられた感じ。
あー、ちなみに、別に「実験音楽」をバカにしているわけじゃないです。やっぱり面白いと思うし、大事だと思うし。で、そのある部分を引っ張ってきて、そこを基礎に何かをやるというのは、色んな意見があるかもしれないけど、まあ、単純に面白そうだなと思っていて。だからといって、「実験音楽」だからエライとは思わないけど。でも実際にやっていることもナゾだったし、面白かったし。
 で、たぶん、実はそれはそんなに変なことじゃなくて、しかも別に権威とかなくてもできることなんですよね。ただ、権威とは別に、じつはある種の知性みたいのが必要で。それは、そもそもアカデミーかどうかとは全く別の問題だと思っていて。
 だからコワいんだよ、ココの人たちは(笑)。


●だからなんかアソコでやっているの、興味がある人は行った方がいいネ。
 あのー、行ったことがない人は知らないかもしれないけど、アソコ、実はとても変わった場所だと思う。一番大きいのは、客と演奏者のカキネがないというか、控え室がそもそもない(笑)。で、誰もが何かを飲んだりしているから、じつのところ実質的に、演奏者も含めた全員が、なんとそのお店の単なる客になってる(笑)。これかなり凄いとおもう。内装はカフェ仕様だし。なんなんだココ(笑)。
 しかも客席ものんびりできて、煙草も吸えて(←これ素晴らしい)。客としては、のんびりしながら集中できる。ただ、演っている中身がハードコアなだけ(笑)。



●そういう感想。
●字数が短いから、ちょっとだけ感想も追記しようかな。あー、ちなみにセグメンツ、スゴかったですね。偶然性ってこういうことか!みたいな。

 とくにおもしろかったのは、演奏を目でみているのと、直視しないで天井とか壁とかを見ているので、全然ちがう感じだったこと。
 というのは、適当な理解ですけど、目で演奏を見ていると、ちょっとした動きで次の音が予測できてしまうんですね。あ、もうすぐ弾くんだ、みたいな感じで。つまり、「分割」というより「連続」にみえる。それは、実は紙を見ていたときも同じで。ストップウォッチを見ている限り、ただ「連続」しているだけにかんじられる。

 でも、それをやめて、ただボーッと(笑)、壁とかバーカウンターとかを眺めていると、ホントにいきなり音がして、けっこうビックリする。それは音でビックリするんじゃなくて(音が出ることは分かっているから)。そうではなくて、ボーッとしていると、別に音が鳴る必然性がまったく感じられないんですよね。だけど、音が鳴る。いいかえると、「音が鳴る必要性がないのに、音が鳴っている」という状態を体験している気がしたわけです。
 カッコよく言うと、世界が「分岐」しているというか、つまり「ボーッとしていて音が鳴らない世界」と「ボーッとしていて音が鳴った世界」があって、どっちでもいいんだけど、現実としてどちらかが選択された感じがしたというか。
 それが本当に偶然に決まっているから、なんか現実ってそういうことの積み重ねなんだなと。なんだか可能世界みたいな(笑)。

 いいかえると、偶然性って、ちょっとした作曲技法だと思っていたんですけど、聴く側にとっても、「現実の時間」というのが、つねにそうした「音が鳴る/鳴らない」という分岐にある、そういう「現実が偶然の積み重ねであること」を体験できるというか。それ、けっこうスゴかった。
 ケージのCDを聴いてもなぜかそういうことは全然感じなかったけど(笑)、それはライブで見たからかもしれない。というか、「セグメンツ」として、構造を明確にしてもらったからかもしれない。それがまず最初の感想。

●ただ、それで面白かったのは、後半、視覚効果の方に移行したけど、そこはなんというか、ちょっと分からなかった。それは上に書いたように、目で見ているとやっぱり「連続」に見えちゃうんですよね。なんか、時間的に一直線にあらかじめ線が引いてあって、それを断続的にオンオフしているというか。それはランダムかもしれないけれど、「一直線」であることは認識できてしまう。
 そうすると、あまり偶然という感じはしなかったんですよね。作曲方法としては理解できるけど。それは、あるいは受け手の個体差の問題(つまり、個人的に、視覚的な把握力が強いとか)かもしれないし、ひょっとすると、目で見ることと、聴くことの認識の違いなのかなとかも思った。とすると、ここでやはり「視覚的/光学的空間」と「音響的的空間」の問題が出てくるのか、とか(笑)。そういうことを考えた。

●うーん、個人的に、この最後の「空間」の問題は面白そうなんですよね。実は「ナマなんとか」のとき、写真と「セグメンツ」の話をされていて。それは、たぶん目で認識する写真の時間と、音楽=セグメンツの時間のズレがどうなるか、という話をされていたと理解していて。それについても、このへん、面白そうだなーと。

 ちなみに、この問題、なにかオリジナルな関心のように書いていますが、さいきん読み直してビックリしたんだけど、大谷能生「貧しい音楽」の最後の章が、同じ問題を扱ってるんですよね(笑)。マジかよ〜、さすがに早いなあ(笑)。
 うーん、大谷さんは、こういう議論に飽きちゃったのかもしれないけど、でもまだここ、なんかディグできそうな気がする。ただあまり焦ると、オカルトになっちゃう気もするけど(笑)。
 でも個人的には、色んな音響とか音響的即興とか呼ばれたのも、じつはこういう問題を、最初から含んでいたような気が、最近しているんですよね。「空間」の問題。
 このへん、面白そうだな〜。ケージとかフルクサスについても、最近そういう興味があるんだけど、そんなことをしている時間はない(笑)。



●あとは・・・杉本さんの曲か〜。うーん、ついでに書くと、比喩を一切受け付けないんですよね、あの音楽。しかも何を書いても本人に怒られそう。というか、その色んな試みをすべて追いかけているわけでもないし、もっと筋金入りのファンの方(含む評論家)もいるだろうから、なんかそれも躊躇われる(笑)。
●そのうえでテキトーな感想を書けば、まず、お話で関心を3つ挙げてましたけど、あれが最近の関心なのかというのが、(あとから思うと)ちょっと分からなかったかも。話だけだと、ずっと同じ興味で作曲しているようにも受け取れたけど、実は最後のものは、ひょっとして最近、ちょっと関心あることなのかなと、あとから思った。

●で、感想としては、演奏について、そうだなー。
なんかというか。とても抽象的だったけれど、それがそのままきわめて具体的でもあるような、何かの機械みたいだった。あるいは、極端な形式主義を経て生まれた、ある種のn次元多様体みたい。←これは比喩ではあるまい。

 あるいは、聴いている側からすると、まずある種のサスペンス感があるんですね(笑)。つまり、なんだか大きな構造みたいのが演奏されているんだけど、聴いている側からすると、構造の全体が途中では把握できない。たとえば、いつ終わるのかさえ定かでない(笑)。
 だから聴いている間は、それまでの演奏の記憶を反芻しながら、次の音を待つという、宙吊り体験を強いられる。演奏が終わるまで、意味づけとか何もかも分からないまま、ずーっと宙吊りのまま維持。
 で、終わったら拍手はするんだけど、じつは「ここで終わりか!」とおもっていて(笑)。そして謎解きは、そこから始まる。そういうサスペンス体験が、まずある。

●あるいは、ちょっと角度を変えると。たしかある種の絵画と比較して論じた議論があったと思いますけど、たしかに話をうかがって演奏を聴くと、絵画と比較したい気分は分かった。
 
●といっても、具体的な誰ソレに似ているというのではなくて、個人的には、たとえば「構造」や「意味」に関心があるといっていたけれど、それを絵画でいう「構図」と「形態(フォルム)」として考えてみれば分かりやすいのかな、と。

 たとえば「構図」だったら、「構図ってなんだろう?」と考えてみて。で、結果、キャンバスにうっすら一本だけ線を引いて展示してみる、みたいな。で、全体が分割されているんだから、それが「構図」だろう的なかんじ(笑)。それを音楽でやると、1時間に音が7つしかないとかになる、みたいな。
 ただ、それだったら誰でもできるんだけど、どうやらその一本の線を引くために、あれこれプログラムを組んでみて。たとえばキャンバスの大きさから比率で分割したり、確率で比をつくってみたり、古典の作品を分析して構図を抽出し、それを変形させてみたり。そうした操作をあれこれしたうえで、最終的に、一本だけ線を引く、みたいな。何かそういうプログラムが組んである(笑)。
 あるいは「意味」についても、絵画でいう「形態」みたいな。つまり「結局は絵の具が塗ってあるだけなのに、人の顔にみえるのはなぜだろう?」みたいな問いを立てて、そのうえで何かやってみる。たとえばミッキーの顔をたくさん重ねながら描いてみると、そうすると、ただの線の絡まりみたいなんだけど、ミッキーの顔面増殖のようでもあり、その逆でもある、だからほら形態って、そういうものでしょ、というかんじ(笑)。だけど、たぶんそこでも、ミッキーの配列具合や、図柄の選択にプログラムが組んであったりとか。
 なんか、そういうことを考えた。いいかえると、どうも「静寂」だけではアプローチできない。というか、あんまりそういうことを考えていないんじゃないか(笑)。

 で、最後の「ピッチ」も、つまり絵画でいう「色彩」に近いのではないかという印象を持った。というのは、美術における色彩は、色んな考えがあると思うんだけど、一つは「関係性」だと思うんですよね。つまり、隣同士の色の関係や、あるいは下地に何をぬって、そのうえに何を塗って、その積み重ねによってどうなる?みたいな。もちろん古今東西の、モザイク画から油絵までの試行があって、そういう意味での前提もある。そういう意味で「関係性」の中にあるんだと思うんです。
 で、音程にしても、じゃあ絵の具を塗るとして、何をどう塗ればいいかということを考える(笑)。これは、けっこう大変な仕事で、関係性があるから、そのなかで一つを決定しなければならない。それは、かなりな大仕事で。で、また色々プログラムを組んでみながら、ちょっとずつ実験している。なんかそういう印象。


 で、これって、つまり形式主義だと思うんですよね。それも、文字通りの意味で。ほとんど原理的な部分で形式的に追いつめて、そこから実験/再検討していく。ただ、それが分析手法じゃなくて、創作のあり方としてある。そういう、すごい徹底した形式主義を経ていると思うんです。

 ただ、重要な問題がひとつあって。それは、音楽って時間芸術だから。つまり形式といっても、実はなんとその形式が、4次元的に展開する(笑)。
裏を返すと、それを客観化しようとする意識は、もう一つ上位の立場にいくわけだから、じゃあ5次元的だったのかと(笑)。客が5次元に引きずりこまれている、しかもサスペンスに巻き込まれている。
 なんなんだソレ(笑)。それはつまりn次元多様体みたいだ、と。
 そんな曲、困るよー。


●ただあえて付け加えると、これが単にヘンなんじゃなくて、実はある意味でものすごく批判的にもなっている。つまり、原理的な部分から形式に降りていくので、既存の音楽の「基礎」というか、「音楽の条件」みたいなものが問題になっている気がしたんですね。

 そして、そういう「音楽の条件」に対して、一つ一つ攻撃しているというか、一度うきぼりにして、別のあり方を模索している。そういう作業をしている感じがした。ある意味でものすごく攻撃的であり、ものすごく原理的で。ただ実際は、ものすごく静か(笑)。

 だから、これが「実験音楽」なのかはよく分からないけど、「現代音楽」というなら分かる。それは、アカデミーに属しているとかいないとかではなく、コムズかしいとかでもなく、ただ現代の、作曲された音楽というだけの意味において。あるいは、たとえば知的であるようにみえるけど、それは意図したのではなくて、現代において作曲するために必要だからそうしているだけにすぎない。そのようなナイーブな意味での現代音楽。

 しかも、面白かったのは、実は確率決定に「麻雀の結果」とかを紛れ込ませていて、すごくゲスである(笑)。逆に、そういうところから決定していくから、とてもハングリーでもある。そういう部分があるみたいだった。

 いいかえると、これはちょっと間違っているかもしれないけど、つまり5次元上のサスペンスをずーっと解いていくと、ひょっとして最後に出てくるのは、そうした作曲家の人生の断片なんじゃないか(笑)。
 あるいは形式を決定しているプログラムを辿っていくと、じつは単純な計算じゃなくて、決定因子として作曲者自身のちょっとした個人史が組み込まれていて、それが最後に残される。どうもそういう仕組みになっているのではないか。
 逆にいえば、とても抽象的な曲であるかのようにみえて、実はプログラムを通して、作曲者の人生の断片がそのまま構造化されているのではないか。つまり「数字」として個人史が曲全体に作用しており、それによって曲が成立している。だからその曲を聴くとは、ある意味で作曲者自身を聴いているといってもいいのかもしれない。

 裏返せば、曲が一つの「曲」として完結している根拠はそこなのではないか。各種プログラムの結果のようであっても、計算を決定する確たる「根拠」があって、それは作曲者自身の断片である。だからこそ、複数の構造が決定されている。つまり、いいかえればあの作曲作品は、原理的で形式的な異議申し立てであると同時に、じつは、それが全体である種の「表現」になっている。それは音色とかメロディーとかではなく、曲の全体が、まるごと一つで。つまりは、n次元上のサスペンスとその犯人としての表現。

 だから、とても抽象的だけど、きわめて具体的でもある。そうした意味での、一つの、固有のシステム。あるいは固有の系をもつ機械。客は、そのいくつもの系を時間の中で体験する。
 それって、なんかわかんないけど、もう「現代音楽」としか言いようがないんじゃないか。


 そういう印象。どういう印象論なのかは、よくわからないけど(笑)。


●おー、なんだか感想を書いてしまった〜。でも最初に書いたのより、だいぶ短い(笑)。
 あ〜、あの演奏されたギターの曲、あとから思い出すと、素晴らしかったような気がします、気がするだけかもしれないけど。なにしろきちんと思い出せない(笑)。というか、タイトルさえわからない(笑)。
 実はさいきん、ほとんどCDを買ってないんだけど(←休憩中だから)、久しぶりにCDであったら欲しいと思った。まるで画集を買うようなかんじで、2500円でもまったく高くない。つまりたとえ音が7音しかなくても(笑)、買うポイントはそこじゃなくて、きちんとした作品を買うという意味で。あー、なんかエラそうだな(笑)。いや、CDであったら、教えて欲しいというか、ピッチの考察は面白そうです、ということが言いたい。


●そういうかんじで。とても充実してた〜。あー、ちなみに、ここに書いたことが間違っていたとしても、まあ許してください(笑)。メモみたいなものだから。というか、コメントやメール貰っても、お返事しません(笑)。
 あと、あまり直接的なリアクションをされても、たぶん反応しないんで、それも許して(笑)。というか、別にリアクションを求めて書いているわけではないんですよ。なんか、ひとりごと?みたいな。そういう方向でおねがいしまーす。

 とはいえ、やっぱり面白かったなあ。まあ、いろいろ間違っているかもしれないけど「入門編」ってパンフレットにも書いてあるし、とりあえず間違ってみよう的なかんじで。というか、他の人は一体アレをどう思ったんだ?。議論するしない以前に、そっちの方を知りたい(笑)。

 あー、時間がつくれたら、次のも行きたい。他のも行きたいけど、休憩中なのでユルして〜。行ける人は行ってみた方がいいニャ〜。あそこ、なんかヘンなことが起きてるケハイ。
 そして、しかも実は、行けるのは今のうちなのだニャー。3月でおわりなのよ〜。

●アイヤー!結局ながくなってしまった〜。しかも変なことについて、変な内容のことを延々と〜。
 まあいいやー。とりあえず、ピリピリするより、ナイーブな方が好みでR。ナーバスよりナイーブが、とりあえずのモットー。
 あー、でもそれ、ただのバカってことか(笑)。まあそれもよきかな〜。
 そんなかんじで、ではでは休憩再開なのダ。
 んじゃ、また。ばいばいきーーん♪