二月雑感

●まだ二月は終わっていないけど、雑感など。

●さる五日に、吉祥寺の井の頭公園で、大友良英「音をあそぶ」(←で良いのかな?)の企画に行く。ふらっと、無料だし、というかんじで。池の上でボートにスピーカーを浮かべて演奏するという、はっきりいって謎の企画。
 とはいえ、予想外に面白くて驚く。詳細は省くけど、木立があるせいで、その中にいると、音がかなり様変わり。個人的には、あちこち移動した結果、演奏している真向かいのいちばん奥、というか公園の端っこで聴く。木があるせいか、逆に物凄い爆音状態になったんですね。なんか音が木の上から降ってくるというか、目の前の林全体が、巨大なスピーカーになっているような感覚。ちなみに五分ほど遅刻したのだが、その時点ですでに商店街に音は漏れていた(笑)。
 しかも、なぜか演奏自体に途中でジーンと来る。なんだったんだ・・・?と、あまりに奇妙な感動をおぼえ、終わったあとに誰かとそれを分かち合おうと思ったが、個人的に知り合いはいなかった・・・。吉田アミさんがいたが、かといってどうしていいのかわからん・・・ツイッターとかやっていればこういう時に便利なんだなと痛感(?)。
 うーむ、やはりアクセス解析とかして、無理矢理に知り合いを確保した方が良いのだろうか?でも、そうすると人目を気にしちゃう文章になりそうで、それはそれでイヤなのだった・・・。どうでもいいか(笑)。


 で、本当は色々な感想があるのだが、一点、「公共の場での演奏」ということをぼんやり考えていたら、まとまらなくなる。(以下、見ていない人には全く分からないような内容ですが、たぶんこのコンサートについて検索したら何か出てくる、はずだと思う。)
 
 というのは、たぶんこの演奏について、多くの場合は「公共」ということに議論が向くと思う。それは、いいかえれば、「公的な場」といってもいいだろうし、もう一歩つきつめれば、おそらく「公的/私的(プライベート)」という二分法になるだろう。演奏を、私的な場ではなく、オオヤケの空間でおこなうことの意味と問題、のような議論だ。
 ただ、企画全体を思い出すと、どうもそれだけではないような気がした。つまり、ざっくり「公的・公共」といっても、実は色々あるのではないか。あるいは、私的でプライベートな空間を一歩でれば、そこには剥き出しの「公共の場」が広がっているように思われるが、実はそんな単純ではない気がする。
 つまり、ここで想定するのは、地域社会とか地域コミュニティとか、そのような領域だ。つまり公園というのは、もじどおり公共の場にほかならない。ただその一方で、単に公共であるだけはなくて、より具体的な「地域社会」と関係しているのではないか。たとえば近隣の人の生活であったり、商店街であったり、毎日ジョギングしている人であったり、たまたまデートに立ち寄ったりする、そのような特定の地域のネットワークの中にある場所だと考えられる。公園というのは、「公共の場」であると同時に、そうした地域の社会と分かちがたい関係にある場所のように思う。
 で、何が言いたいかというと、「公共・公的」というとおもわず、国家=中央政府、のようなものを思い浮かべたりするが、おそらくそうしたものとは違うことを想像しなければならないのではないだろうか。つまり、ある(広義の意味での)文化的な活動をするとき、その回路として様々な方向がありうるだろう。たとえば分かりやすいものは、アカデミーとか、国家事業参加とか、そうしたものだろうし、それはまさにパブリックな回路だろう。他方、そうではない回路もあり、一つにはプライベートな運営として、ライブハウスをやったり、自宅で何かをしたり、という「私的」な活動もありうる。
 ただしそれらにくわえて、ちょうどその中間に、地域のようなものがあるのではないか。あるいは、大きい小さいは問わないが、そのような地域に根付いた社会的コミュニティのようなものがあり、そこを回路とする活動もありうるのではないか。そして、あの公園での水上演奏は、そのような活動であったように思われた。つまり、公園で、それも井の頭公園という、具体的な地域社会の中で、そこにあるネットワークの中で、何かをすること。近隣の人がおり、商店街の人がおり、ジョギングをしに来る人がおり、デートをしに来る人がいる・・・そうした様々な人を含んだ意味での地域ネットワークが、そこにはあったように思われた。あるいはその視点からすれば、極端にいえばケーサツの方も、ショーボー隊の方も、実はそうした地域社会の一員でありうる。そうした領域性だ。
 そしてあの音楽は、単にどこにでもある「公共の場」であるだけでなく、そうした独自の領域のなかで、響いていたようにもおもう。だからどうしたといわれれば、よくわからないのだが・・・。


 もちろん、あの演奏のすべてをそのような社会性に結びつけるわけではなく、むしろこうしたことは、あとから思った枝葉末節に近い。どちらかといえば、木立の中でかんじた「空間」性の方が、個人的な関心と連続している。ただ、それだけだと大事な部分を見落としてしまうような気がした。
 付け加えれば、いうまでもなく、この「地域社会と文化活動」という問題は、実はいまやアート全体に広がっている問題でもある。というか、個人的には、そもそも二〇一〇年代の大きな議論の焦点が(アートというような文脈を離れて)、このような「国家」でも「個人」でもない、「地方/地域」という領域にあるような予感も(ちょっとだけ)ある。ただしいずれにしても、そのときの重要な問題は、そのような領域に関与しているから良い・悪いということではなく、そこにおいて具体的に何をし、何が起きているかということだろう。その議論を抜きにした意見は、ただの言葉遊びだ。
 とはいえ、このことばかり書きたいわけではなくて、実は逆なのだが・・・まとまらず。というか、この文自体も、とくにまとまっているわけでもなく、何かをまとめたいわけでもないのだ・・・。



●ありゃ、なんとなく中途半端に長い文になってしまった・・・だったら普通に感想を書けば良かったかも。まあいいかー。
 というか、謎も多い。あの長距離でも聞こえてしまうスピーカーは一体何なんだ!とか。色んな楽器が聞こえたけど、どういうことだーとか。あと、なんか哀悼みたいな演奏で、ジーンと来てしまったのだけど、なにかの主題みたいのがあったのかとか。・・・質問ばっかり(笑)。
 あー、あと、井の頭公園ってほとんど行ったことないし、初めてくらいの勢いだったけれど、あそこって、じつは池と林ばっかりだな!


●そんな二月。とはいえ、二月はまだ続くのだが。


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