日常のつづき 2

 交通のせいで移動できない人には少し申し訳ないけれど、今日もまた、池袋に来た。ただいま、14日の午後8時。いつもより少し遅いのは、次にいつ、時間を取って来ることができるか定かではないから。いまのうちに処理するファイルなどを整理する。


 池袋は、きのうとあまり変わらない。違うのは、人が少ないことと、あとみんな急ぎ足で移動している。人によっては電車がなくなってしまう可能性もあるのだろうし、あとかなりの店舗が午後6時〜8時をメドに閉まってしまうということもあるかもしれない。
 けれど、いつものようにざわざわしている。北口の方はどうなっているのだろう。このあと、見にいくつもり。客引きのお兄さんに、目には見えないウインクをしてみよう。



 いろいろな反応があるだろうけれど、とりあえずのんびりしてみる。動けないなら、しょうがない。
 どちらかというと考えるのは、停電中に何をしようかということ。今日は対象にならなかったけれど、いつなるのか、わからないし。

 時間だけがあって、することもなく、移動もできないと言うなら、まずできることは考えることくらいかなと思う。



 たとえば、こんなことに誰が興味があるのか知らないけれど、そういえば前から考えていたのは、「テクノイズ・マテリアリズム」とか「貧しい音楽」といった本について。というか、具体的には両方の序文についてだ。
 我ながら、こんなときに考えるのがこんなことくらいかと思うと笑えてしまうけど(笑)。


 実はこの二つの本は、中身はほとんど逆のような方向性だけれども、なぜか序文はいずれも生死のようなメタファーが使ってある。前から、それが少し、よくわからないのだ。これは北里さんも、「サウンド・アナトミア」で触れているけれど。

 とくに、前者は、あまり確かなこととは言えないけれど、どうも「音楽ではない音楽」というものをあらかじめ設定しているような、トートロジー的な議論の構造になっているような気がする。
 また後者については、「二重の」ということで、記譜と録音があがっているけれど、たとえば最近の問題として、「プログラム」とか「データ」というのは、どうなのだろうと考える。実際、「プログラムがあればそれで十分」というような考え方はあるだろうし、それは実は「即興の解体(第一部)」に直接に繋がっている。また、レコードやCDはモノとしてあるけれど、では非物質的な「データ」はどうなるのだろう?
 このあたりが、なかなか難しい。


 誰も読んでないとおもうけれど、ちなみに去年に書いていた文章では、ざっくり「創発」ということで、つまりはプログラムがあったとしても、即興やアートとしては、まったく違う成立の仕方があり得る(のではないか)ということを考えていた。
 だから、個人的には「即興の解体」の問題については、ある意味で別の角度からアプローチできるような気もしている。いいかえれば、プログラムで予測不可能性を全てコントロールしたとしても、それで即興そのものが終わることには、たぶんならないのではないか。そういう方向性の議論。

 だからといって、別に批判とかするわけじゃないけど(笑)。この文自体が、所詮はブログですから。


 と、まあ、そんなことを考えてみる。一日に3時間も考えれば、すごいバリバリできちゃうんじゃないか(笑)。



 というわけで、じゃあ、停電になったらそういうことでも考えてみようかな(笑)。誰の役にも立たないかもしれないし、別に立とうとしていないけれど。

 ある意味で、何かのつづきかもしれない。あるいは、そのような意味での、日常のつづき。