日常のつづき6

今日も自宅から。現在は18日の午後11時30分。


今日は夕刻に外出する。2日前とほぼ同じルートをとおって仲宿商店街から、さらに足を伸ばして大山商店街へ歩く。いくつかカフェ。ちなみに、こうやって書くと毎日遊んでいるように見えるかもしれないが、実際は持ち歩いているファイルや書類を整理したり、文書を作成したりする作業をしながら。そのあいまに、街を見て歩く。


驚いたのは、人が多く出ている。とくにモリバなどでは、運動着を持っている主婦の方々(ママさんバレーか?)の集団なども。ほぼ店内はいっぱいだ。それは大山でもおなじ。ときおり「おひさしぶり」という声が聞こえる。久しぶりの再会なのかもしれない。

もうひとつ、とても笑顔が多い。あるいは笑い声。話のネタは、たしかに地震のことだが、でもそれをネタにグチや気分の話をしながら、ときおり笑いがまじる。これも2日前にはみられなかった。笑いの総量が、ふえた。
夜には、みなが急ぎ足で帰宅。街はいっきに暗くなる。

これも、あたらしい日常かもしれない。



ただ、おなじく2日前の日記にかいたように、感情の反応は、まだこれからくるのではないかと予想している。これからというのは、たぶん、感情は笑いだけではないからだ。そこでは、もっと多くのコトバが消費される気がする。
とくに大きい変化は、たぶん今はまだ困惑している感情が、ある日、何かの形の確信に変わるのではないかと予想する。あるとき、ふわっとしていた感情が、どこかへ落ち着く時間が来るのではないか。その着地点がどこで、それがどのような確信なのか、それについてはまったく予想できない。

こう書くとまるで他人事のようかもしれないが、決して他人事ではない。昨日かいたように、そもそもなぜこのような日記めいたものを書いているのか、その理由が自分でも分からないのだ。
だが、にもかかわらず、ある日とつぜん、この文章に何かの理由を見出すかもしれない。上に書いた「困惑が確信に変わる」というのは、そうしたことを指す。そして、そのときに、どのような理由を見出すのか、今の時点では自分でもまったく分からない。


だから、すこしナルシスティックだけど、あらかじめ書いておこう。いま書いているこの文章は、少なくともこれを書いている時点で、いかなる意図も含まれていないし、何のメッセージもない。たとえばこの文章に、励ましや、ドキュメントといったコンセプトは含まれていない。少なくとも、そのような短いフレーズに要約されるような単純なものではない。
もしそのような理由付けをしはじめたら、それはまやかし、事後的なウソだ。もちろん、ある時点で自己正当化は、いろいろな意味で自分自身に必要なことかもしれない。けれど、現時点で、これを書いている者は、そういう正当化を拒否する意向だけはもっている。この文章は、そのような単純な動機では書かれていない。

おそらくこれから、社会的な有用性を基準にするコトバの消費が進むだろう。けれど、この文章はその意向には沿っていないのだ。やっていることは、いまさら、まだこんなことにこだわっているのか、というような、どうしようもない考えについてのコトバの組み合わせ。ただ、それだけである。それ以下であっても、それ以上では決してない。
この文章自体に何の意味があるのか分からないけれど、未来についてクサビを打っておく。理由はないが、そうする必要をかんじる。


つまりはおそらく、新しい日常と、日常のつづき。あるいは、そのはざま。
いま、まだそこにいる。



どうでもいいけれど、昨日ひさしぶりにFMNサウンドファクトリーのブログを拝見して、いまさら13日の日記を拝読する。この方、というか石橋さんについて、僕は何も知らない。たぶん確実にどこかですれ違っているけれど(間違いなく浅草のダブルオーケストラではすれ違っているはずだ)、どのような容貌の方かも知らない。

ただ、安易な共感はしないけれど、書かれている文章をよんで、自分も納得するところ多い。共感しないというのは、たぶん聞いてきた音楽の量も圧倒的に違うし、それにたぶん関心もすこし違っているはずだから。
でも、どうしてこうやって、音楽みたいなことから離れることができないのか、どうしてこうやって書いているのか、その文章は、自分にも当てはまるような気がする。たしかに、たかが、と思うし、まあ客観的に見ればメチャクチャだと思うようなものも正直たくさんある。というか、そっちの方が多い。


けれど、そこから離れられない。ブログを拝読すると、その理由は、そうかもしれないとかなんとか、なんか思ったりする。

つけくわえると、実はこうやって書くことで、それが作り手の人にとって迷惑ではないかというのは、常に思う。コトバで、作ったものを切り裂いているようなものだからだ。しかもただの聴き手が、そんなことをしていいのだろうか。それって、ある種の暴力じゃないかと。
でもなんか書いてみようかなと思ったりする。それは、なぜなのか、未だによく分からないけど、そういうことかもしれないとかなんとか。


そう、だから、ファンという言い方には、ひとつだけ、最近抵抗をおぼえる。どうして書いているんだろうというとき、ファンとかそうじゃないとか、好きとか嫌いとか、そういう理由で書いているんだろうか。そういう基準で判断しているんだろうか。
なんか、ちょっとちがう気がする。よくわかんないけど、ただの興味っていうか、そういう言い方しかできない動機があるような気がする。

裏を返すと、ファンって、なにかを作り手に押しつけているような気がするんですよね。それが良いっていうか、期待に応えたいという作り手の方もいるかもしれないけど、一方で、そういう押しつけがイヤだという人もいるかもしれない。場合によったら、作者のことなんか何も知って欲しくないし、作品だけを見て欲しいという人もいるかもしれない。
だったら、ファンとかなんとか、もう良いかなというか。別にそういうことで見たり観に行ったり、聞いたりしているわけでは、ないような気がする。そのへん、むずかしい。

まあ、だからどうしたといえば、よくわからないんだけど(笑)。



ああ、ちなみに冷静なツッコミをいれると(笑)、文章にざっくりした動機は書かれていますけど、なんで東京に来たのかということの具体的な理由は、じつはまったく書かれていないのデスネ・・・・・・あー、いや批判じゃなくて。ちがうちがう。ノーノー。怒らないで〜〜。ただのツッコミです(笑)。
上に書いたように、理由とかあんまりハッキリできない状況だと思うし、それは自分もそうだし。だから書く必要自体が、そもそもないです(笑)。だからフォローとかもしれなくていいです。そんなこと求めてない(笑)。

というか、ぜんぜん存じ上げないけど、石橋さん、ケンカ多そうですよね(笑)。だれか、ケンカする前にツッコミを入れればいいのにとか、ちょっと前から思っていた。関西の人なんだから、笑いで丸く収めてほしい、とかなんとか(笑)。


ああ、つまり何が言いたいかというと、できるCDを楽しみにしていますということが言いたい。
まあ、実はすぐに買えるかどうか、よく分かっていなくて申し訳ないんですが・・・・・・まだ聞きたいけど買っていないCDが、山ほどあって。だって、いつのまにかジョン・ゾーンがファイルカードを再開したらしいと思ったら(←「エレジー」が好きだったのでうれしい)、なんかドバドバ新作が出てくるとか(笑)。
どうやって追いつけば良いんだ?未開の荒野がどんどん広がっているようなかんじがする・・・・・・

でも、楽しみにしています。




そんな月の丸い夜に。

新しい日常について。
あるいは、日常のつづき。



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