日常のつづき7

同じく自宅から。いつもと少し遅れて、現在は20日の午前0時30分。
今日は、一日中ねていた。いや正確には一日中ではないが、12時間ほど寝る。
また今日は計画停電がなかったので、とくに考えることはなかった。

だから、とくに書くことがない。
それもまた、日常のつづきだ。



では、このようなときなので、どさくさ紛れに、これまで書き残していたどうでもいいことについて、ついでに書いてみる。具体的には、ループラインでおこなわれた「生ループ」について。いまさらだけど、すこしだけ。まあ、こんなときでもないと、書かないかもしれないし。


というのは、実はこのイベントに行ったとき、事前に一つだけ、質問を抱えていたのだ。それは結局、まあ眠かったので(笑)、質問しないまま終わったのだけど、それをあらためて書いてみる。


まず、このイベントの後に起きたもろもろについては、個人的には、カタをつけたと思っている。それが良かったのかどうか分からないが、まあ、トントンという気分だ。
ざっくり言ってみれば、議論というより、意見のすれ違いだったように思う。僕が実際にあの場で見たものは、さまざまな意見があったけれど、全員がマジメだということ。たしかにスタンスは違うし、中には酔っぱらっていた人もいたけれど(笑)、誰も、互いがやっていることをバカにする人はいなかった。誰も、互いを嘲笑したりはしなかった。
たぶん一般的にはバカにしかみえないかもしれないが、誰もがそれを、それぞれのスタンスでマジメにやっている。そのことだけで、それが分かっただけで、個人的には一つの収穫だった。

その後のやり取りについては、とくに言うことはない。ネットを観ていて思っていたのは、一番大きい問題として、だれも「実験音楽とは何か」という定義をしないまま、それぞれが思いこんだ定義だけで、意見が交差していたことだ。だとすれば、単純にいって議論の土台が成立していないのだから、それは議論ではないといってもいい。

問題は、ほとんどが30代を過ぎたオトナのはずなのに(笑)、事態が収拾されなかったことの方かも。誰か「定義がないと議論はトートロジーですよ」とツッコミを入れればいいのに、と思っていた。
というか、このイベントに関わった人は、ひょっとして全員、ボケキャラなのかとか(笑)。つまり、ツッコミが足りない。


まあ、それについては、そんなかんじ。でも、そんなことは、もうどうでもいい。



で、そのときに抱えていた質問は、一つだけ。それは「みなさんは『前衛』ということについて、どう思っているんですか?」ということだった。
何を今さら、という人もいるだろう。けれど、これは単純に作り手の側への問いではなくて、評論家と呼ばれた人たちへの問いかけでもあった。つまり、作品なり演奏なりの位置づけや評価をめぐって、この質問を透かして、各人のスタンスが明瞭になるのではないかと思ったのだ。
いいかえれば、この質問自体に、それほどの意味はない。ただ、この質問によって、あの場の参加者の立場が、それなりに浮き彫りになるのではないか。そういうことを考えた。


まず、この質問について、僕自身の意見は、そのときこの場で書いていた長文で、すでに示してある。「いくつかの境界線について」というので書いたのは、次のようなものだ。
つまり、前衛とか最前線というコトバがあるとして、そしてそれはある種の社会性を帯びたコトバであるとして。
もはや現在、現実において、そのようなものは存在していない。少なくともそのようにみえる。とくにそれが軍事用語だとすれば、なおさらだ。だとすれば、そのようなコトバをアートや音楽だけに使うのは、たぶん意味がない。それは、ただのコトバ遊びに過ぎないのではないか。これが、個人的な意見だ。

つけくわえれば、個人的には、社会性や政治性がある・ないというだけで、何かを評価する・しないという議論には、あまり意味がないと思っている。けれど問題なのは、だからといって、社会性や政治性を無視できるかというと、実はできないともおもう。
実際、いろいろな観点からの基準があってしかるべきだと思っているし、それは例えばこの一週間で書いてみた文章でも、それぞれ作品や演奏について、まったくちがった基準を採用しているし、それはこの一週間にかぎらない個人的なスタンスだと思っている。
とはいえ、その自分のスタンスが絶対的だと思っているわけではない。むしろ、そのような社会性や政治性をどのように理解したり、把握して良いのか、良く分かっていないのだ。
だから、色んな人に聞いてみたい。それをどう思っているのかな、とか。



そして、そういうときに「前衛」というのは、一つの分かりやすい焦点だろう。たとえばほとんど無音の演奏をする人は、自分の作品をどう位置づけているのだろう。段ボールを弄っているだけの人は、どう思っているのだろう。

あるいは、いわゆる評論の人はどうなのだろう。「そんなものは関係なく、個人的にグッと来たかどうか、が重要だ」という人もいるだろう。でも、たとえば北里さんは、想像するにおそらく作品や演奏に、ある種の「思想」を見出しているように思う。一方、野々村さんはそういう社会性を削ぎ落として、むしろアカデミックなアプローチで行こうとしていると思う。もちろん、これは推測。だから、よくわからない。

けれど、この質問で、音楽についてのアプローチの違いが見えるようにおもう。つけくわえれば、吉田アミさんは自分を「前衛家」と名乗る。そのスタンスは、何か。あるいは、人によっては、自分の演奏が、そのまま社会的前衛だと考えている方もいるかもしれない。


くりかえしだけど、どのようなスタンスを取っているからダメ、とか言いたいわけではない。人によって色々なスタンスはあると思う。
逆にいえば、「一つのスタンスを取るのはダメだ」という言い方があるかもしれないけれど、実は個人的にはそういう言い方には、ちょっと警戒している。というのは、何かを作ったり、あるいは評価したりするとき、そこには何らかのスタンスが必要だろうと思うからだ。だから、何でもありだ、スタンスなんか関係ない、というような考え方をしてしまうと、むしろそれは理解を阻害してしまうのではないかと思っている。

だから、あえて、どう思っているのかな、と。



というようなことを、訊いてみたかった。ちなみに、答えがほしいわけではない。ただ忘れないうちに書いてみようと思っただけ(笑)。
あー、なんか今、こういうことを書くと、「アナタはいま、自分が政治的・社会的に、何ができると思っていますか?」みたいな問いかけのように響くのかもしれない。でも、そうじゃない。そういうことじゃない。

上に書いたように、「いま」とか「こんなとき」というようなククリの問題ではない、もっと長い射程の問題についてだ。それは、震災というのを通り過ぎた後、そのはるかあとにまで続く問題だと思っている。つまりは単純に、どうやって作家や作品を理解すればいいのかというような問題。
それは、時期は関係がない、もっと長く続いている問題だとおもう。

つまり、日常のつづき。その一つ。




・・・とはいえ、さっき思ったのだけど、現状からして、ひょっとして月曜日にループラインに行けるかも。だって電車が走ってそうじゃん。
うーん、なんかそろそろ面も割れていそうだし、自分が変態だという告白(?)もしてしまったし。なんだかメンドーだなー(笑)。


でも、もう一回くらいループラインに行ってみたい。終わっちゃうなら、その前に。
閉店するまでは、つづいているわけだし。


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そんな19日。
何かの、どうでもいいかもしれない、つづきのこと。


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