日常のつづき10

今日も自宅から。ただいま、午後23時。今日はほぼ在宅。夜9時すぎに近所のコンビニへ行くが、商品が少なく、何より人が少ない。店員さんがカウンター越しにお喋りするくらいに、人がいないが、その理由は定かではない。

テレビなどを眺めていると、不満や批判のようなものが出てきているらしい。個人的な予想としては、これがおそらく感情の反応であり、そしてこうした反応は、これからある程度、長く続くような気がする。
つまり、なしくずしにつくりあげられた新しい日常に、ようやく感情が着地し始めたのではないか。興奮と緊張ではない、次の感情の反応。
ときおり訪れる余震と、灯りのない時間帯、人気のない夜の街、滞る交通。新しい日常は、そうしたなかにつくられるようだ。当然だが、これは他人事ではない。


ひとつだけ、気になるとすれば、そうした感情の中で「寛容」の在処がどこにいくのかということだ。なんとなく、これからの感情は、ある問題に対する「関心」と、それにたいする「無関心」のあいだで形成されるような気がする。
とすれば、そうした関心/無関心のあいだで、「寛容」はどこにいくのだろう。つい先週まではあちこちで聞こえたそのコトバの居場所は、これからどうなるのだろうか。無関心でも関心でもないその感情は、どのようになるのだろう?
まあ、もともと首府に寛容などなかったと言われれば、それまでだけど。その意味では、何も変わっていないのかもしれない。


新しい日常と、日常のつづき。それがいま、折り重なりつつあるのかもしれない。



こうして書いていると、誰が読んでいるのかはわからないが、読んだ人は「この人は何者なのだろう」と思うような気がしてきた。もちろん、そんなことはどうでもいいのだけれど、ちょっと前に、プロフィール欄に職業として「文章デザイナー」というのを加えようかと思ったことがある。

仕事は、とうぜん「文章デザイン」。とはいえ、フォントでもレイアウトでもなく、文章自体をデザインする。つまり、ただ書くだけ(笑)。

まあ、そんなことをすると、本職の文筆業の方をバカにしているような気がしたので自粛したけれど、そんなかんじ。
というわけで、ここでやっていることも、文章デザインです。



そういえば、なんだかあれこれトピックを連ねているけれど、前から持っている個人的関心に「空間」の問題がある。これについて、一般的なことを書いたことはないし、あまりきちんと勉強したこともない。
ただ、ひとつだけ考えるのは、ここでいう空間(と、とくに音との関係)が、けっして3次元的とか立体的とか、そういうアイデアではないということ。
実際、スギモトタクによる音響批判のなかに、「なんでもかんでも空間といえばいいのか」みたいのがあって、別にそれを意識しているわけではないのだけれど、たしかに「空間」とザックリ言ってしまうとよくわからないことが多いような気がしている。

具体的に言えば、たとえば初期音響派について、議論の多くはザックリ「空間が歪んでいる」という表現が多い。でも、実際には空間が歪むことはないわけで(ものすごい重力場とか発生しない限り)、そのへんをアバウトにやりすごしているような印象があった。

だからといって、それに対してオルタナティブな意見を提出すると言うことは、もちろんできない。ただ、そういう言い方とは違う立場に立ってみるとして、とりあえず「視覚的空間」と「音響的空間」をわけてみると、もうすこし何か考えられるのではないか、ということを、ちょっと前に考えてみた。そのつづきを、考えてみる。

けど、これは、いきなりやってしまうとかなり神秘主義っぽくなってしまうので、いきなりやることは留保したい。実際、「目に見えないものの力」とか言い出すと、そのフレーズ自体が、かなり神秘主義っぽい(笑)。



それで、まったく違う例をだしてみる。たとえば、ロブ=グリエの小説に「迷路のなかで」というのがあるけれども、これを読んでいると、その描写の中に、大きく二つの異なる空間把握があるように思う。ひとつは、視覚的で、もうひとつは音響=聴覚的な空間把握だ。
ちなみに翻訳でしか読んでいないので、この議論は、議論というより妄想に近いことを前提に進める。

あらすじを整理するのは面倒だけど、ざっくりいえば、第二次大戦中のヨーロッパの寒村で、ある傷痍軍人が、戦死した同僚の遺品を実家に届けようとしている。だが、その街はどこへいっても同じ風景で、何処がどこだか分からない。そうこうしているうちに、なぜか町中で始まった戦闘に巻き込まれ、射殺されてしまう、ということになるだろうか。ほかにもあるけど、あまりに面倒くさい。


で、ロブ=グリエについては、しばしば「視覚的描写」が強調されるらしい。じっさい、この小説も、街のこまかいディテールを丹念に描いていて、室内にしても屋外にしても、視線をすみずみまで言語化しようとしているように見える。これを、とりあえず視線による空間把握とよんでみよう。

一方、これに対してまったくちがう描写によるものがある。それは、とくにオートバイに代表されるものであり、それはただ音としてのみ、描かれるのだ。とくにオートバイは「どこから聞こえているのか分からない」「遠くから聞こえるオートバイの音」というように、たしかに描写はされているが、音としてのみ把握されるものだ。
これは、上述の視線による/視覚的な描写とは異なる。なにしろ、目の前にモノがないのだから。けれど、空間が欠如しているのでは、まったくない。ただそれは、「どこか遠く」というようなかたちで、視覚性とはちがう空間におさまる。これを、音響的空間もしくは音響空間的な描写とよんでみよう。


そして、このような形で二つの空間に着目してみると、この「迷路のなかで」という小説の全体が、この二つの空間の対立としてみえてくるようにおもわれる。
すなわち、当初はひたすら視線によって描写される空間がすすんでいくが、途中からオートバイによって示される音響的な空間がはいりこんでくる。そして、そのオートバイを先陣とした戦闘の光景になると、そこでおこなわれる機関銃の一斉掃射において、もはや描写はただ音だけになる。そこでは、距離も、正確な数も、正確な位置も分からない。ただ音だけの描写が支配する。
いいかえれば、視覚的空間を、音響空間が浸食していっているといっても良い。
そして、上に書いたようにその結果、残されるのは傷痍軍人の射殺という事態だ。その後、ふたたび描写は視覚的把握にもどり、音響的描写はきえていく。
このように、「迷路のなかで」を、二つの空間の対立のプロセスとして読むことはできないだろうか。


ちなみに、このような音の描写や、音がもたらす視覚的空間の亀裂/破壊は、ロブ=グリエの他の小説にも見られる。「覗くひと」では、ほとんど常に視姦しているような描写がおこなわれるが、そのなかでいきなり背後からかけれる人の声や、風の音などは、視姦による空間秩序を動揺させ、主人公の心理にも影響をもたらすものとして置かれているようにおもう。



もちろん、「迷路のなかで」を、このように単純化してはいけないという意見もあるだろう。実際、ここではそもそも語り自体が、なにかおかしなことになっている。つまり一人称で語りが進むのだが、その語り手が、しばしば「いや、そうじゃない」とか「まちがった」とか言い出して、描写を修正したりする。これは、空間とはまったく別の、語りの次元の構造をもっているだろう。

また、視覚的と音響的という以外にも、もう一つ、まったくちがった位置にあるものとして「会話」があるようにも思う。この小説での会話は、通常考えられるようなコミュニケーションでもドラマでもなく、ただただ、ある登場人物が目の前の事実を指摘し、それにたいして別の人物が「わからない」と答えを返すだけのような、得体の知れない行為としておこなわれている。
これもまた、空間とも、あるいは語りとも異なる、奇妙な位置にあるようにおもう。


ちなみに、もうひとつだけ付け加えると、上に挙げた「語り」の構造について。この語り手は、しばしば「まちがった」といって修正している。とするならば、この小説は、ある一人の語り手によって、最初から最後まで、ずっと一続きに延々と語っている、その生録音(の書き起こし)であるようにも読むことができるのではないか。

何が言いたいかというと、変な理解かもしれないけれど、これはある種の「即興性(の擬態)」ではないかとおもう。即興については色々な理解があるとおもうけれど、そのひとつは、おそらく一回性というか、その場で、ただ一回だけの行為としてずーっと何かを続けてみる、ということがあるのではないか。

そして、一回しかないから、逆にいえば、間違う。というか、間違いがそのまま残ってしまう。修正するなら、「あ、まちがった」ということを受け入れて、それからの続きとして修正するしかない。
そのような一回性の語りとして、この小説はあるのではないか。まあ、そんな簡単ではないのは分かっているけれど、そのような要素があるのではないか。



つまり何が言いたいかといって、この小説はややこしいということ。あと、意外に面白いということ。
そんなことはいうまでもないという意見があるかもしれないけれど、別に改めて言ったっていいじゃん。なんか、色々おもしろいよ。


そんな、どうでもいいことについての、妄想と間違いの、つづき。



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