日常のつづき11

いま、池袋の作業室にいる。およそ一週間ぶりか。現在、午後7時30分。かなり寒いが、暖房をつけるキッカケがわからない。あるいは、つけたり消したりしていいのか、つけっぱなしの方がいいのか、そのあたりもわからず。



とりあえず一週間ぶりにLANでネットに接する。読み込みの遅かったツイッターなどもまとめて。というより、はてなのコメント欄なども何故かみることができなかったので、今さらまとめて、いくつかのページを拝見。
たくさんの意見や立場があることを確認。どれがいいのか、自分の立場がいいのか、よかったのか、それは良く分からない。いまでも分からない。

ただひとつだけ、そういえばドバドバ書き続けていたので、もしかしたら、どなたかの不興や怒りを買ったかもしれないと、今さらに思う。けれど、それはもうしょうがない。怒られるのは、最初から覚悟している。どうしようもなく面倒になったら、最後には、このページから撤退して、ごく普通の(ほんとうの意味での)匿名の存在に戻ることも、いつも考えている。

そんなことを考えながら、なんで書いているのかと言えば、理由は良く分からない。だからこそ、そのくらいの覚悟はしている。この12日間の文章も、その点では、全く変わっていないつもり。

といっても、誰か怒った人がいたら、ごめんなさい。そんな意図はありません。とりあえず、先に謝っておきます。



色んなことは考えるが、とりあえず街を歩く。

はっとするのは、気のせいかもしれないが、ワカモノが少ない。高校生、中学生、あるいは20歳前後の、若い男女の姿が、ほとんどいない。
今日は大山から池袋へ電車で出てきたが、そのどちらにおいても、ワカモノの姿をほとんど見かけない。見るのは、お年寄り、主婦、サラリーマンばかりだ。


多くの人が東京を出たのかもしれないし、ただ家にいるだけなのかもしれない。個人的には、そうした選択それぞれについて、何かの意見はもっていないし、まったく自由だと考える。


それとはまったく別の問題として、なんとなく、街からワカモノの姿が消えている。これも、新しい日常だろうか。それとも、錯覚だろうか。

まだ、新しい日常は形成されきっていないのかもしれない。あるいは、変化がつづいているのかもしれない。

別にそれほど先を見たいわけでは、まったくないけれど。

そのような、変化と新しさと日常の、つづき。


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