日常のつづき12

今日も池袋から。ただいま、ちょうど24日の午後9時。


あまりプライベートなことを書くつもりはないが、珍しく、はっきり書くと。
かなり疲れているような気がする。別にここに文章を書いていることによるのではなく、むしろ、ストレスによるもののようだ。それが、身体に疲れとして来ているらしい。
実際、ほぼ二日に一日の割り合いで、なんらかのパニック的な事態が起きて来た。個人的にはパニックにはあまり反応しないが、むしろ「パニックを起こしている人がいる」という情報そのものが、一つのストレスとして感じられる。それが、蓄積している感じ。
僕ですらそうなのだから、たぶん首府にいる多くの人が、もっと多くのストレスと疲労を感じているか、もしくはそれに麻痺しつつあるのかもしれない。

だからといって、どうしようもないが、これはウカウかしていると思考や感情側にも回って来そうなかんじもする。いきなり頑張ったり、ボケーとしだしたり、ウキウキしたり、何かそっちの方へ意味もなく転じてしまいそうな気配。

だからといって、どうするわけでもない。この12日で、なんだか良く分からないフレーズが沢山できたので、意味もなく繰り返しておけば、これは忍耐ではない。できることはとくにない。できる範囲で、できることをする。

それは、しかし何も新しいことではない。いつもと同じではないか?



どうでもいいけれど、おとついくらいに、即興を「一回性」という点から捉えてみた。即興と言うのは、一度だけ、何かをずーっとやり続けてみることではないかと。

で、これは一体なにを言いたいかというと、実はここから、「私たちに許された特別な時間」というような感覚について、すこし線をのばしてみようと考えていたりした。
個人的には、その劇作家について、小説でしか触れたことがない。けれど、その小説を読む限り、そこに漲っているのは、ある種の時間感覚のようにおもえた。
つまり、一度しか過ぎていかない時間において、その時間の一回性のなかで、何をするのか。何をしたのか。そのような主題だ。というより、この本におさめられた二本の小説は、いずれもほとんど、ただそうした時間感覚だけを主題にしているようにさえ思える。


いきなり飛躍してみると、実はこの問題は、ある意味で、連載されている「即興の解体」について、その章だてとはまったく違う経路から、同じ着地点に向かって進もうということでもある。
まだその最終章はみていないけれど、おそらくそこでは、音楽における即興と、演劇における何かが交差するのではないか。それがどのような論点かは分からないけれど、とりあえずそれとは全く違う経路から、つまり即興や一回性という問題から、そこに向かうことができるのではないか。


とはいえ、そんなことを考えるほどの体力はいまはないので、とりあえず言ってみるだけ。よくわからないが、この問題を、このようなアプローチですすめていくと、なんだか色々やっかいな手続きを踏まなければならないような気がする。たとえば環境とか空間とか、なんだかあれこれ。


で、くりかえしだけど、そんなことを考える体力はない。



今日もあらためて街を見る。もちろん、それは首府のごくごく一部でしかない。
とはいえ、昨日も書いたが、どうやら明らかにワカモノが少ない。とくに、どうもカップルが少ない。

リブロに行ったが、そこにいるのは女性でもひとりだし、あるいは家族連れ。あとは一人でいる男性ばかりだ。

それに、すでに4時頃には池袋駅が混みだしている。みな急ぎ足で、会社勤めらしい方々が歩いている。が、これは仕事をしているというより、ひょっとすると帰宅しているのではないか。セイブ線のダイヤは確認していないが、もしかしたら夜に停電による運休があるのかもしれない。だから、4時には帰宅しなければならないのかもしれない。


ここまできて、これまで少しずつ自分なりに予想を立てながら、何かを見て来たりした。けれど、今日思ったのは、どうやら自分の予想が少し大雑把すぎたらしいことだ。
当初から、新しい日常として考えたのは、もちろん停電だったり(とくに生活より営業活動への影響を重視していた)、それにより感情的な反応やストレスをメインに捉えていた。だから、これについては、その反応はまだまだ出てきたばかりだし、たぶんだいぶ長いスパンで盛り上がりが出てくるだろうと予想する。
けれど、やはりレディオアクティウ゛な影響が、まったく別の角度から、別の新しい日常をつくりだしているようだ。それをすこし軽視しすぎていたのかもしれない。
新しい日常は、どうもそう簡単ではないらしい。



まもなく、この作業室を出る。けれど、おそらく夜の街に人は少ないだろう。それは、一つには交通の問題だったりするが、おそらくもう一つは、目に見えない何かへの警戒や不安によるものではないか。
そこには、若者はいるのだろうか。恋人はいるのだろうか。あるいは愛を売り買いしている人たちは、何をしているのだろうか。


とりあえず、部屋を出よう。それは、いつもと同じことだ。扉を開けて、鍵をしめるだけ。それは、いつもと特に変わらない。
新しい日常のなかの、日常のつづき。


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