維持と変化3

どうでもいいけど、今日は書くけれど、たぶん明日は書かない。
いま、わからないのは、どうやら「正しい答え」ではなくて、「正しい問題」であるようだ。それは時事問題についても、政治についても、文芸についても。この3日間の文章はとても断言が多いけれど、それは、答えを出そうとしているというより、問題がどういうものなのか、それを探しているというか、だからこそ、余計に断言する形になる。
でもそれは短期間のことじゃなくて、たぶんもうすこし長い話。だから勿論これは個人的などうでもいい文章なのだけど、別に毎日書いてみるつもりは、最初からない。


もうひとつ、書かなかった10日間のあいだに何が起きたのかわからないけれど、つい10日前までは、大きな変化のなかに「つづき」を見ていた。けれどいまは、当たり前になってしまったようにみえる日常の中に「変化」を見ようとしている自分がいる。
だからどうしたといって、とくに意味はわからないのだけれど。




以下、順不同。

ちょうど一週間くらいまえ。ドトールにいたら、客は沢山いるのに、店内が静まりかえっていた。どうしたのかと思ってうかがうと、ほとんどの人が携帯をみつめているか、ゲーム機をみつめていた。だから、そこに人がいても、会話はなかった。
それをみて、正しい理解かどうかわからないけれど、ネットは、一人で考えるメディアなんだと思った。誰かと話すのではなく、目の前のモニターに向き合って、そこを流れる情報とひとりで対話する/せざるをえないメディアなのだと。だから、会話がない。
それを、孤独といってもいいのだろうか。これほど沢山ひとがいるのに。



ちょうど一週間くらいまえ。ジャッキー・チェンのデマが流れて、混乱があった。多くの人が疲れていて、そこに見事なタイミングでやってきたデマだった。
デマとしては、たぶん良くできているなと思った。



関西のひとが知っているかは分からないけれど、ちょうど一週間くらいまえ、トーキョーのコンビニから、ビールをはじめとする酒類が消えた。買い占めらしい(噂によると、飲んだら放射線から防護されるらしい)。花見の季節が近いのに、と思った。今は回復しつつある。
で、そのとき不謹慎かも知れないけれど、なにが残っているのかを見てみた。ビールだけでなく、チューハイも日本酒もない。冷蔵庫がガッポリ空白なのは、どこか異様。
のこっていたのは、マッコリ、ウォッカ、そしてオニゴロシだった。買い占めのさなかでも、味覚による価値判断が機能するのだろうか。のこされたウォッカで花見をしたら、ホーシャノー以前にアル中になってしまうのではなかろうか、とか思う。
あと、やはりオニゴロシは、庶民の酒だとおもった。




時事問題。


「有事」という言い方もそうだけれど、どうも状況についての切り取り方が、「戦争」か「平和」か、その二極しかないモデルがあるようで、気になる。気になるというか、それが正しい問題なのか、わからない。いまは、ただ、災害とその対応と復興なのではないか。
それを戦争といい、あるいは長期戦というと、そこから様々なコトバが連なってくるようだ。たとえば「忍耐」「我慢」「自粛」「強制」というコトバが出てくる気がする。あるいは、何か、おおきなものを背負って、歯を食いしばって生きていかなければならない、というような。そんな文字列が自動的に形成される。気がする。
でも、いまはたぶん、戦時じゃない。これは災害なのだから。もしそれが無理ならおおきなものを背負う必要はないと思う。そうしたことができる人、それが得意な人はいいけれど、それが無理なら、ただあなた個人でいいと思う。



もうひとつ。関連するかしないか、かなり抽象的だけど、どこかに「敵」をつくらずにはいられない思考のモデルがあるようだ。すべてを「敵」か「味方」かに割り振って、そうしなければやっていけない思考のモデル。でも、現実にはそんな簡単に割り切れない。敵でも味方でもない、友達やちょっとした知り合いや、たくさんの知らない人や、そういう人がいる。というか、そっちの方がたぶん多い。

たしかにすぐ目の前に「敵」を設定するのは楽だ。いまの不安を、目の前の誰かのせいにしたいし、誰かについてムカつけば、そいつを「敵」と言いたくなる。敵か味方かに分けたがる思考は、もちろん自分の中にもある。コメや水がなくなったとき、それを沢山もっている人たちを敵意の目で見たことが一度もなかったかと言えば、正直分からない。「敵」を探しだそうとする思考は、たぶん、まちがいなく自分の中にもある。
でも、それは「正しい問題」ではないように思われた。そこから正しい答はでてこないようにも思われた。


というより、いったいどこに「敵」がいるのか。これは戦争ではないのに。敵がいなくとも、目的は設定できるのではないか。敵がいなくても、正しい問題をたてることはできるのではないか。だとしたら、敵か味方かという分け方は、敵と味方しかいないという分け方は、ニセの問題ではないのか。
なぜなら、これは戦争ではないのだから。


もちろん、この問い自体がただしいものなのか、それさえも分からないのだけれど。


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