一か月・・・

どうでもいいけど、なんだか書くのを再開してみたが、誰に読まれているのかわからないうえに、時事問題はどう読まれているのか分からないという問題が重なって、とてもどうでもいい面倒くささがつきまとう。
でも、自分にとっての問題は、問題が何かが、わからない、ということは変わらないのだけれど。そしてそれは、実はいつもそうなのだし、その意味では大きく変わっていないような気がする。



じつは今日も含めて今週末は、トーキョーでは興味深すぎるイベントがありすぎるのだが、どれにいこうか激しく迷う。どれも行ってみないと分からない気配のするものばかりだが、どれに行こうか決めるのも、その日のその時間が迫るときに適当に決めることにする。

ただ、とりあえずセンキョだけは行く。これは、ただの普通のセンキョだ。決め手に欠けていようと何だろうと、ただ当たり前のこととして、とりあえず行く。



ポスターを見ていると色々と思うが、「どくたー・ナカマツ」のポスターの衝撃ぶりはいつもと変わらず。それを見るたびに、これはごく当たり前の手続きとしてのセンキョなのだと、あらためて思い直す。

その顔面の劇画っぽさも衝撃だが、とくに「世界に敬愛される愛国の江戸っ子」と書いてあるんだけど、何が言いたいのかさっぱり分からない・・・
愛国なの?江戸っ子なの?わざわざ重ねるということは、もともと「江戸っ子」は「愛国」じゃないということなの?というか、そのまえに、だったらどうした?みたいな。


たしか前回のセンキョのとき、この人は「ミサイル攻撃を無効化する装置を発明したから、チヂになったら配備する」と言っていて(nhkでも言っていた)、街宣車にそれ(実物)を乗せていた。それを、僕はこの目で確認した。なんかランドセルみたいの。
だったら、チヂにならずとも配備しなさいよ?とおもうのだが、誰もそんなツッコミは入れないようだ。それが親切なのか、何なのか、良く分からないのだが・・・

どうでもいいけど彼を見ていつもおもうのは、いわゆる「オカルト」というのは、こういう論理的なのだが摩訶不思議なことを指すのではないかということ。世のアーティストは、このナカマツの言論に対抗できるくらいじゃないとダメだ、とか思う。幻視というのは、まさにこれじゃないかとか。あまり本気で言っているわけではないが。何かを言いたくなる不可思議な力がある。
一体、何票はいるんだろう?100票は入るのだろうか。どんな人が入れるんだろう・・・


そんな興味もあるが、ただとりあえずセンキョに行くことだけは決まっている。あと、誰に入れないかということも。




ちょうど今日で一か月なのに(4週間、と言う意味で)、トーキョーにいながら、まだアタマがうまくバランスをとれない。あるいは、カラダも、かもしれない。逆に言えば、何となくある形で、前の自分と最近の自分が接続されつつあるようにも思う。それが良いのか、どういう形でなのか、それはまだ不確かだけど。


驚くのは、すでに体感で地震の震度をあてられるようになっていること。体の中に、なにか新しい感覚が埋め込まれてしまったようだ。

さらに、余震のあとに、確認するあれこれの手続きも、自分の中で一連のものとして確立されている。自分の周辺をチェックし、メディアをみて、心配し、おびえ、おそれ、そしてそれを一度無視する。そうした一連の流れ。情報と感情のオンオフについてのセットができてしまっている。たぶん、これは人によってちがうだろう。



花見に行く機会がない。誰か、葉桜になっても行くという人はいないのだろうか。あれはあれで、なんというか中途半端さが満開だから。というか、それだったら一年中、花見ができるか。

まあ、どうでもいいけど。とりあえずすこし、おとをききにいこうかと思う。


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