一か月、後、、、

今はまだ夕方で、今日はまだ終わっていないが、日記。


花見ができないので、意味もなく池袋のニシイケ公園(だったと思う、名前がわからない)に回り道。マルイの裏側にある。知っている人は知っている「ココナッツ・ディスク」という中古レコード屋のすぐそば。桜並木というわけではないが、まあ、見るにはちょうどいい立派な桜がいくつかある。満開、散り際。


雨の予報もあるし、どうかなと思っていたら、人がけっこういる。人数は沢山いるわけではないけれど、場所とりとしては、とっくに花見ポイントは埋め尽くされている。


ふとみると、おもいきり「ぺーぱーむーん」と書かれた看板で場所とり。まだ書いたことのない池袋のもう一つの顔。このすぐ近くには「ぺーぱーむーん」があり、その隣にはブラックスモーカーやブッダブランドの人たちがイベントをしている「ベッド」というハコがある。

シンクタンクとミンガが共演したCDがあるけれど、それはどう考えても、その二つの場所の近さによっているのではないか。フリージャズとヒップホップが出会う、それはジャンルではなくて、ただとりあえず互いの距離と出会いの話なのかも。


そういえば実は、そのどっちにも行ったことがなかった。
でも、行ったことがなくても、そこで何かが起きていたことは知っている。フリージャズの人たちが全く触れなくても、ヒップホップの人が知らなくても、そこには即興で出会うということで起きた何かがあることを、知っている。誰も触れないけれど、シンクタンクのキラーボングがつくった「トガシ・ダブ」というフリージャズのドラマーに捧げたCDがあることも知っている。
そのCDの出来は、個人的には少し緊張しすぎているような気もするけれど、でもキラーボングの他の作品には、どうにもフリージャズと共通するとしかいえない、即興的な何かが漲っていることも知っている。


だからどうしたといえば、とくにどうもしない。ただそんなことを考えながら、少し離れたところで一服した。



時事問題について書くのは、あとでとても面倒な気分になる。でも、とりあえずいくつか。


いまは削除しているけれど、ちょっと前に書いたことがあった。そこで少し触れたことは、少し前から予想していたのは、テレビで「がんばろう」や「希望」という言い方がでてくることだった。そのとき、さらにそのうえで、それに対する批判や否定がでてくることもすこし考えていた。

でも実は、個人的にはそれに対して批判的な意見はない。たぶん、そういう言い方が、ある意味でいまは必要だろうし、実は多くの人は「がんばろう」と言われれば、がんばることができるのだろうから。


すこし回り道をすると、ニュースを見ていて個人的な興味は、実はゲンパツなどにはない。どちらかというと、自治体の被害がとても気になっていて、必要な情報や人材や施設が、かなり損害を受けているように見受けられた。というより、どうも一か月たっても、ひょっとしてまだ把握しきれていないようにも思える。

もし自治体が被害を受けていて、そのうえで復興のようなことを考えるとき、これはかなり大変ではないかと思う。都市再建には面倒くさい土地権利や都市計画や業者とのやり取りが必要だし、産業復興には各種組合との関係や調整や労働力の再編なども必要だろう。

たぶんそれは自治体メインでやるのがいいのだろうけれど、でももし本当に被害を受けていたら、それをやるのは政府しかない。しかもなるたけ早く。というのは、早くしないと、かなりの人が失業状態になっていて、それが生活面での影響にも及ぶだろうから。

だから、都市再建や産業復興はある程度、早い方が良いと思う。つまりそういうことしか、実はいまは、ニュースを見ていて興味がない。これが正しい意見かどうかは分からないのは、もちろん前提のうえで。


で、もしそうなら、たぶんある程度、「ひとつになろう」という言い方が必要になるし、出てきてもしょうがないのではないかと思っている。これは、それくらいの規模の一大事業なのではないか。ひとつひとつケチを付けていたら、そのぶん、計画立案に遅れがでて、実施に遅れがでて、仕事や生活に影響が出る。あまりにも遅れると、たぶんトーキョーやカンサイにも色んな形で影響が及んでくるとも思う。

で、そうした国家行政が機能するとき、たぶんそれを補強するものとして、ある種のかけ声的なものは出てくるだろう。しかもこれは、どれほど巧くやったとしても、たぶん絶対にある程度の失敗が予想されるような事業なのだから。



だから、「がんばろう」とか「ひとつになろう」という言い方自体に、批判しない。それでがんばれたり、まとまることができるなら、それは良いんじゃないかと思う。

これは戦争じゃない、と何度か書いた、その最大の理由は、それ。ひょっとしたら「みんながまとまれ」というかけ声がでてくるかもしれないけれど、でもそれを即座に戦争と同じものと捉えて良いのだろうかと。問題の出発点がそこでいいのだろうかと。なぜなら、これは戦争ではないのだから。
そこから出発しないといけないような、そんな気がした。


だからといって、すべてのひとが、がんばったりはできないだろうし、賛成も反対も、手をあげることもできないひとも、たぶんいる。何もない普通のときでも、そういう人は沢山いるのだから、今はもっとたくさんいるかもしれない。
そういう人のことも、すこしかんがえる。


そんなことを思った。くりかえしだけど、この考えや問いが正しいものかは、自分でもわかっていない。結論も、当然だけど、ない。




ちょうど正確に4週間前から、とつぜん毎日かきはじめた。その理由は分からない。ちょうど2週間前に、それをやめた。その理由も分からない。

それから2週間たって、何かがわかったといえば、何も分かっていない。

だからどうしたといって、それさえも分からない。分かるのは「つづき」と「変化」があることだけで、それはいつもと同じことのようにも思える。


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