維持と変化 4.1

「毎日かかない」と言いつつ書いているのはどうかと思うが、この数日で以前の自分との接続が成立しつつある。このまま行けば、来週くらいから、ある意味で前と同じようなネットに近付かない時間の過ごし方をするような気がする。なので、それまでに、とりあえず考えていたことを書いておこう。垂れ流すわけじゃないけど。
というより、今日は、昨日の付記。



まず、まったくもってどうでも良いが(ちなみにあらかじめ言っておくと、怒っているわけでもヤケになっているわけでもなくて、本当に個人的な体験)、昨日、ここに文章をアップしたあと、井の頭公園で花見があるらしいということで、実はキチジョージに行った(笑)。

途中からイヤな予感がしたのだが、駅に到着してみると、なんと雨。どうやら花見は中止かもしれないと思われたが、まあ、別に合流しなくてもとりあえず一人で花見しておこうということで、意味なく公園に突撃した。
暗い上に雨が降っていたが、案外、花見をしている人たちがいる。実際、ものすごい勢いで桜が満開。池に向かって垂れ落ちるように咲きまくっている。
色んな人がおり、カップルもいたが、なぜか歌を歌っている人たちもいた。買い物袋をさげて急ぎ足で移動している人がいるので、そこに人が集まっているのかと思って追ってみたら、公園を抜けて帰宅する人々だった(笑)。ここに来るのは、これが二度目なので、なにがどうなっているか状況が分からず。ちなみにツイッターをやっておけば良かったと思ったが、それも二度目だ(笑)。


一度、公園入り口のカフェに避難して雨宿り。30分ほど待つと止んだ。とはいえ、もはやあの暗さでは、花はみえても人の顔は識別できないことが分かったので、とりあえず一人で花見を敢行する。
ぷらぷらと入り口の階段を下り、はじめて公園を一周した。ちなみに夜の9時。明かりは白色灯だけ。まだ歌を歌っている人がおり、さらになぜかハーモニカを吹いている(一人で)人も発見。あと、おもったより、公園がでかい。
15分くらいで一周。なんだかわからないが、花見気分でお腹がいっぱいになった。くりかえしだけどヤケになっても怒っているわけでもなくて、けっこう、というかかなり楽しんだ。というか、こんなに花を見たのって、むしろはじめてかもしれない(笑)。


ちなみに、これは変化と言うより発見にちかいが、桜を見ていたら、光源にちかいところよりも、遠くにあってうっすらと見えるものの方に惹かれる。これは、最近までの目の感覚では捉えられなかったものかもしれない。暗がりになれた目だからこそ、見えるものかも。
実際、白色灯のある周囲は、いまの目ではもはや明るすぎる。そんなに光がなくても、しっかりと暗がりの中に咲いている花をみることができる。光と闇だけでなく、そのあいだの明るさ。それが、池を越した対岸まで、ずっと広がっているのが見える。
ああ、ひょっとして江戸時代とか、このくらいの感覚だったのかもとか思う。だからどうしたわけではないが、なんかちょっと風流な雰囲気って、このくらいの明るさと暗さかもしないとか。

というか、前も思ったが、この公園って、池か樹ばっかりだな!




昨日に書いたあとも、なんだか急速に状況が変わる。ちなみにちょっと前に「ゲンパツに興味がない」と書いたけど、もちろん関心はある(ないほうがおかしい)。

ただ、いずれにしても全然分からない。たとえば未だに、トーキョーの現在の電力がどこから来ていて、どこを切るとどうなるのかとか、そういうことが全くわからない。
おまけに今日は「5」から「7」にあがるとともに「テラ」という数字まで出てきて、やはり単位の文脈が分からないので、意味として受け止められない。あえていうと、ニホン円に換金できない特殊な通貨を前にしているような感覚。
たとえば「ポンチョ」という通貨があるとして、「500万ポンチョでハサミが買えます。5000億ポンチョでお子さまランチを食べられます」と言われて「?」と思うような(つまり1ポンチョが何円に相当するのかわからない)、そういう文脈のなさを感じる。

ただ分かるのは、それが恐ろしいことだけ。けれどなぜ、何がおそろしいのか、それさえも分からない。単位も意味も文脈もない恐怖をかんじる。



そのあとも、さらに何度も揺れ。ネットで地震情報をみると、この2日間に起きた地震の数がものすごく、それだけで目眩がする。
一方で、昨日かいた、身体と感情のセットは、どんどん短くなっていることも感じる。実際、今朝の揺れのときは、体感で震度を予測しメディアで確認しただけで終わった。そのうち、ただ「ゆれている」と思うだけでスルーするようになるだろう。

実際、昨日の揺れのとき、おもわずツイッターを拝見したら、それについて呟いている人がだいぶ減っているような気がした。名前をあげるのは面倒なかんじで憚られるけれど、唯一ずっと変わらない反応をしているのは拝読している限り、アメヤさんだけだ。
でも、それはアメヤさんの反応の方が正しいのだと思う。むしろ、(少なくとも僕の)感覚は異常になりはじめている。アメヤさんとは全く面識はないし、昔「バングント」で一度だけ、正確には二度、箱越しにちいさなノックでコミュニケーションをしただけしかない。だからどういう人なのか存じないけれど、たぶんそちらの方が正しいのだと分かる。たぶん、精神的な頑丈さがちがう。

言い換えれば、今、どんどんある意味で冷酷になっているようだ。つまり震度だけを確認して、それがどういう意味をもつのか、それについての想像力はカットする方向にむかっている。

裏を返せば、おそらくトーキョー以西の人たちと感覚が異なるのと同時に、イバラギ以北の人たちとも感覚や感情が異なりはじめているような気がする。あるいは、トーキョーにいて震度をかんじながら、もうイバラギ以北についての想像力を破棄しようとしている。
いまトーキョーにいると、そういう状態にいるような気がする。


だから、たぶん、これからもっとコミュニケーションの必要があるのかもしれない。違った感覚をもつひと同士が接触したとき、おそらくそこには相手を無自覚に傷つけてしまったり、否定してしまったり、そういう関係になりやすい。しかも、いつそういうことが表面化するのか、まったく予想できない。たとえばいまトーキョーにいる人と、いまフクシマにいる人が出会ったとき、そうなる可能性もあるかもしれない。

そのときは、たぶん、ただコミュニケーションを取るしかないだろう。誤解を認めたり、譲歩したり、すくなくとも理解しようとしたり。そういうことが、これから必要になるかもしれない。あらかじめ「ごめんなさい」というだけでは間に合わない、その場その場で、きちんと折り合いを付けるような関係が必要かもしれない。


ひょっとしたら新しい日常は、思ったより冷酷かもしれない。だからそのための準備を、今からしておく。


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