持続と作用

そんなことをしている体力はほとんどないが、ついさっき、ウエノのゲーダイとかいうところに行って来た。遅刻したうえに案の定、公園で迷い、そのあと喫煙をしてトイレに行ったりしてしまった。つまり思いきり遅刻。


ゲンパツと関係あるのかないのかはさておき、ある場所についての話を聞く。まだ始まったばかり、始まってもいないのかもしれないが、そういう話。とりあえずそのことを聞く。

真面目な単語がいくつもでてきて、でもそれがおかしくもなんともない。それをおかしいと思える状況になればいいなと思うけれど、それはまだいつかは分からない。そんなことを考える。

あと、真面目すぎるのか、どうでも良いのか、ウソくさすぎたのか、これまでピンと来なかったような気がする、そんな言葉をもう一つ。

なにかが始まる。



以下どうでもいいこと。
終わったあとタバコを吸っていたら、毎日ラオスの方を見かける。例によって沈黙・・・というか話す必然性が見つからない。どちらかというと、喫煙所のすぐ隣に石切り場みたいに石がたくさんあって、そっちに夢中だった(笑)。
何をしているんだか自分でも良く分からん・・・。




もうひとつ。話を聞いていたら、ちょっとだけデモンストレーションの話が出る。これについて書いて良いのか分からないし、意味があるのかどうかも分からない。けど、それに関連しそうな文章を、すでに書いてしまったから、それについて追記する。といっても、いつもどおり、あくまで個人的な考えで。


結果からいえば僕自身はそれに行かなかった。それは感情的な反対と言うより、実はその理由を沢山あげることができる。
とはいえ、誰かを代表するのではなく、個人的な感想として言うならば、なかでもそのデモンストレーション自体が(それに対する批判よりも)かなり感情的なものに見えたというのが大きい。誰かが悪いと言うのではなくて、そのように見えていた。どういうことか。


実際、その企画そのものがかなり早い印象があった。まだ全体がどうなるのか分かっておらず、そのなかでとりあえず恐怖から行動しているように思われたのだ。いいかえれば、主旨よりも「それを行うこと」自体に意義を求めているように思われた。そして、もしその理由があるなら、たぶんそれは恐怖の感情のせいではないか。恐ろしいので、とりあえずその責任者を責めよう、と。
もちろんこれは他人事ではなく、たしかにホーシャノーの恐怖は感じたし、感情的にもなった。が、だからといって、それをそのまま行動に移して良いのか分からない。それがアートなら良いけれど、そうじゃなさそうだったし。くわえて、たしかその直前に「海外から、なぜニホンでデモンストレーションがないのか批判されている」というような声も同時にあって、企画はそれに呼応しているようにも見えた。そういうことをあわせて、全体的に感情的なリアクションのような印象を持った。これが第一印象。


つけくわえれば、ここにトチヂ選がくわわっていて、その性格はもっと分からなくなっていたように思う。たしか「この企画の最中に、優良コーホ者を一本化したい」というような声もあったし、それへの賛同もあったと記憶する。
とすれば、じゃあそのデモンストレーションは一体なんなのか。ゲンパツなのか、トーデンなのか、トチヂなのか。こういうときは、ザックリしたスローガンでまとめたり、それに則して参加したりすると思うのだけど、そのへんが分からなかった。とすれば、気楽に参加すればといわれても、気楽じゃなさそうな人も沢山いそうな気もした。


ウラを返せば、政治性と社会性がゴッチャに見えたといってもいい。たとえばそこでは、イシハラにトーヒョーするけどゲンパツは怖い、と言う人(そういう人も絶対にいると思う)は、どうすればいいのか。怒鳴られてしまうのだろうか。だとすれば、どうして?

そのへんが、かなり曖昧のようにみえた。ということは、つまり、やっぱり感情的なリアクションではないかという印象を強く持たざるをえない。これが、個人的な印象。


だからといって、デモンストレーション自体を批判しているのではないし、正直、もっと沢山あっても良いと思う。ただし一方で、上に書いたような混乱かつ感情的な状況の中で「一緒に参加しようよ!」と言われると、実はそれはそれで恐怖を感じる。端的に言えば、それはある種のパニック(の裏返し?)に巻き込まれていくような感覚に近い。だからといって、誰が悪いと言うわけではなく、そういう感覚だった。
だから、ネットではある種の雰囲気があったけれど、行くのは止めた。ほかにもライブも行かず、ただセンキョだけ行くことにした。その判断は、あえて書けば、そういう理由になるだろうか。



けれど、繰り返しだけれどデモンストレーション自体を批判しているのではない。というより、もっと沢山あっても良いと思うし、思っていた。
一つだけ例をだそう。例えばこのとき思い出していたのは、「ナショナルトラスト」とか、そういう活動だ。あれは工業化によって喪われる自然を保護することからはじまって、今でもまだ活動が続いている。現在は、かつて自然を破壊したはずの工場自体まで保存しはじめていてスゴいことになっているけど、たぶんこれからもずっと続くのだろう。おそらく、テクノロジーと自然との関係そのものがなくなるまで(ということは人間がいるあいだ)、ずっと続くのではないか。
でも、それは最初からあったわけではない。誰かが、あるとき、どこかではじめた。だからある(たしかそのなかには「ぴーたーらびっと」の作者も含まれるはずだ)。そうした誰かがあるとき始めて、その人がいなくなっても誰かが続けて、今も続いている。これから先はわからないけれど、たぶんある程度つづいていくだろう。


そういう活動を思い出していた。それは、戦争ではないし、敵や味方ではない。長期戦とか持久戦とか、そういうスパンを超えてある、そういうもの。あえていうなら、たぶんそれをこそ、運動と呼ぶのではないかと思った。

だからどうしたといって、答えはとくにないけれど。



どうでもいいけど何か悪辣なギャグを飛ばしたいのだが、とりあえず自粛(いきなりハッキョーしたと思われても困るので)。
そろそろブラックジョーク、ないのかなー。てん年代のブラックジョークを期待する今日この頃。


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