作用と持続 2

どうでもいいけど、いいかげん体力が尽きてきた・・・書く気がしない。話題はあるけど、必然性も感じない。悪辣なこととかいっても、どこからがレッドゾーンかわからないし、そんなことを考えるだけで面倒だ。まあ、どうでもいいか。


そういえば、昨日書いたことの追記で、ちょっと前から音と視覚表象の間の関係が面白そうだと思っていた。で、じつはこれは、別に音に限らない。視覚以外の、味覚や触覚などにも関心がある。

ひとつだけ例。個人的にジャコメッティの作品が前から気になる。とくにスゴいと思うのは、最初期のキュビスム的なもので、とにかく空間表現がスゴい。それは見れば分かる。
一方で、例のほっそりしてガリガリの作品は、ピンと来なかった。言うほどそんなにスゴイですかーとか思っていたのだ。
だけどあるとき、ジュネの「ジャコメッティのアトリエ」を読んで、印象が変わった。そこでジュネはジャコメッティのアトリエを訪問するのだけれど(ジャコメッティがエッチなお店ばかり行っているらしいという描写も面白いが)、ガリガリの作品を見て、ジュネは最初、ピンと来なかったらしい。
でも作家は「見るんじゃなくて、触ってみろ」みたいなことを言って、言われたとおり、目をとじて、そっと手で触れてみたのだという。そして、そのときはじめて分かったという。そこに間違いなく確固とした存在があるのだと。それは、目で見るものとはまったく違う作品だったのだと。そんなことが書いてある。

で、それを読んで、ふーんと思った。ありえる。すごそうだ。というか、それはヤバそうではないか。
でも問題は、いまの制度では作品は触れないこと。手を延ばせば指が触れるかもしれないが、体験するところまで行くのは制度上、無理だろう。ま、しょうがない。どうでもいいか、とか思う。



時事問題。についてのメモ。

以前に書いたときから、少し状況が変化している。

まず、行方不明者の数は、ここ1週間ほど減少してきた。ということは、おそらくジチタイが機能しはじめたということなのだろう。先日は、さらに失業統計(ジチタイごとのロードー局による)も発表された。ここでも機能はゆるやかに回復している。
一方で、住宅不足は続いていて、聞く範囲だと土地の問題らしい。もしこれからさらに、仮設ではなく恒久的な建設がおこなわれるなら、土地の権利問題はもっとやっかいになる。それを、すべてジチタイがおこなうのだろうか。そのあたりのビジョンは見えない。
もうひとつ、あらためて実感するのは「県」という単位が、かなり抽象的であること。実際、県がやっているのは建設の許認可であり、具体的な行政はどれもシチョ―ソンがおこなっているようだ。これまでのメモでも、ジチタイといえばシチョーソンをイメージしてきたが、それほど間違ってはいなかったと思う。なお、いまだに政府はピクともしていないようにも見える。

もうひとつ。ゲンパツについては、メモができない。正直、事態を冷静に受け止めるだけで、かなり衝撃がある。わかるのは、どうやら世界レベルの事故に、いま現在も立ち会っているらしいということだけだ。それは収束していくモデルではなく、まだずーっと続いている状況として、いまも立ち会っているという感覚。
ひとつだけ安心するのは、上に書いたジチタイと県がかなり十全に機能しているらしいこと。とくに、かなり早期に市長連合のようなものが立ち上がって、相互連係が確保されている上に、ケンチヂの人も、ヒナンとヒハンの間で板挟みになっていそうだけれど、積極的に問題に関与したり発言したりしている。
だから、とりあえず行政は機能しているとおもえるし、経済については、ケーサン省が少しずつ乗り出して来ているようでもある。あとは、文化だが、それも動いている。たぶん、行ける。どこに行くのかはわからないけど。

以上、メモ。



・・・ここまででもう十分つかれた。書く気がない。書くという作業そのものが面倒だ。文章は面白いけど。

ぬぬ。



まあ、あえて話題と言えば、これは別にゲーダイに行く前から思い付いてたのだが、どうでもいいけど「アトミック・スカトロジー」という言葉の組み合わせを思い付いて、頭から離れない。どうなんだろう?もうこれだけでレッドゾーンなのかな。



くわしく書くつもりはないけど、それはもちろん、ここ最近の事態を受けて、新たな感受性を身に付けたスカトロジストのはなしだ。ミリなんとかとか、テラ何とかについて、とても敏感な味覚と嗅覚と総合的な判断力を持つ、21世紀対応型。彼らにとっては、もうちょっとしたグルメなど相手ではなく、どちらかといえば積極的に水道水をのみ、大気を吸い込んで生産されたマテリアルこそ、時代が生み出した至宝とみなす。21世紀のスカトロジスト。

もちろん、そんな彼らが実在するかどうかは、わからない。でも、もしいたとしたら、どうなのだろう。今頃、どうしているのだろう。
たぶん、彼らは北をめざす。そこに秘宝がある限り、彼らは北へ向かうだろう。


彼らがいるかどうかは知らないけれど、もし彼らがトーキョーにいて、絶望と悲嘆にくれた人たちを見たら、何を言うだろう。私たちは無力で、誰かを助けるすべをもたないし、私たちの目の前で何もかもが失われたとしかおもえない、この悲しみに、どうすればいいのかわからないのだと、そういう人がいたら、彼らは何を言うだろう。
たぶん、彼らはこう言う。そんなことは言わないでくれと。あなた方は産む機械なのだ、と。男も女もとわず、私たちにとっては宝物を生産する装置なのだから。あなた方が何も持っていないとか、無力とか、そんなことを言うのはやめてくれと。あなたたちは、もう十分に多くをもっているのだ。そう言うだろう。

さらにつけ加えるかもしれない。絶望なんて、そんなことはしないでくれと。絶望は、何の足しにもならないのだから、単純に、残念なことに、絶望はモノとして検出できないのだから。だとしたら、わたしたちにとって、それはあってもなくても、味は変わらないのだ。わたしたちはその意味で唯ブツ論者なのだ。
そんなことをするよりは、大きく息をすって、たくさん水を飲んで、たくさん御飯を食べてほしい。そして、私たちに新しい配合によるマテリアルを提示してほしい。それがどのように変化するのか、変化するかどうかも分からないけれど、私たちはそれに惹かれている。いつものように、おなじように。それでも、何も意識しなくても、いまは自然と、生み出されるものが輝くのだから、と。
そう言うかもしれない。もちろん、言わないかもしれない。


そしてたぶん、彼らは北へ向かうだろう。たくさんの人がいなくなったことは彼らにとって悲しみだけれど、いま、まだそこに人がいるのだから、ただそれだけの理由でそこへ向かうだろう。土地から離れてしまう人がいたとしても、ただ生きているだけで、彼らにとっては貴重なのだから。そこに生活があって、社会があれば、そこに何かの形で宝が見い出せるのだと。

そう言って、いまごろ新幹線にのっているかもしれない。乗っていないかもしれない。どっちでもいい。



そんな出会ったことのない21世紀のスカトロジストについての話。
アトミック・スカトロジー


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