作用と持続 4

いまさら誰もが言っているだろうけれど。

今日は暑い。



誰が読んでいるのか分からないが、例によって疲れた。そのうえ、ただいま実は長期休暇中で、またそろそろ更新ペースが落ちるかもしれない。だからと言って、どういうわけではないが。
まあ、フラフラとよく分からないスタンスで続けていくのではないかと、自分で予想(笑)。

誰に断るわけでも無いが、ま、いいよね?(笑)
よろしくおねがいしまーす。



とはいえ、基本的にあまり後悔とかしないのだが、この2か月でひとつだけ「しくじったな・・・」と思うことあり。
それは、花見。井の頭公園。前衛家。おもいきりスルーしちった。
そのあと、何か機会でもあろうかと思うのだが、意外によくわからないままである。


うーむ、だからといって、どうしていいのかわからん。本当なら花見の「つづき」をやっておけばよかったのかもしれないが、桜については視線的な満腹感を堪能してしまったので。というか花見の時期は終わったし。だからって、連絡するのも何か変な感じが(笑)。なんだ、「いまさらだけど花見しないんですか」とか?何なんだその変な挨拶は(笑)。



ちなみに、こうして書いていくと単なるヘンシツ者みたいだが、別にそういうわけではない。前から言っているけど単なる興味というか、なんというか。
というか、なんだかんだでセンダガヤのセンミンの方々のお話は聞いたし、なんか色々スゴいことが分かったのだけど、そういえば前衛家って何を考えてるんだろみたいなことかも。

たとえば、よくわからないが、ツイッターとかをみると、たまに「オタク×サブカル」と言う言葉がでてくる。が、これは個人的な問題に過ぎないのかもしれないが、同い年なのにそういう感覚が、自分にはまったくない(笑)。あんまりハイカルチャーとかいう意識もない。そのへん、どうなのかなとか。
あと、こういう書き方をすると「否定」とか「批判」とか受け止められるかもしれないが、そういうわけじゃなくて、単なる興味からなんだけど、ものすごく沢山の言葉を使っているけど、あんまり自分の演奏については触れていない気がする。えーと、コンセプトは決まっているのかもしれないけど、たとえばずーっとある期間つづけていると、そのつどごとに「こういうことをやろう」というようなものが、たぶんあるんじゃないかと思うんですね。別にそれが美的でも抽象幾何学的でも社会的なイメージでもいいんだけど、たぶん。そういうところは、あまり書いていない気がする。
といっても、そんなにブログを熟読していたわけじゃないし、その意味では最近になってからの読者なので、あんまし説得力ないかもしれないが。あー失礼だったらすみません。そのへんとかどうなのかなー的な。


・・・といって、何が言いたいのかよくわからんな(笑)。
そうだなー。あー、こんど適当にズミとか行ってみたいが、ジャズ聞きながら誰かアキラについて説明とかしてほしいなーとか書いてみたら、花見の「つづき」とか出現したりするのだろうか。


よくわからないから、とりあえず書いてみた。




さいきん思うのだが。
あのマツゲを「盛る」やつ、いいと思うけど、顔面の個人判別がほぼ不可能だとおもう。誰が誰だか、さっぱりわからん。



レッドゾーン系。予告編。


前から思うのだが、どうも周りをみていると「ひとつになろう」というフレーズに拒否感を示す人が多いようだ。




だが、正直いって、その理由がさっぱりわからない。どうしてそのフレーズに拒否をするのだろうか。

え、だって、「ひとつになろう」といったら、その意味はひとつしかないじゃん。他に何を表すの?ねえ?いや、わかってるくせに。


前も言ったが、わたしたちは唯ブツ論者である。さわれるものしか信じない。
いや、そうではない。わたしたちは、フーリエ主義者だ。コスミックな交わりこそ至上。求めるのは愛。愛の戦争と、愛の革命のための空想社会主義者。過去に絶滅した、未来の種族だ。
その呼び声におうじて、未来からやって来た。ただ愛のため、この世界をひとつにするために。


わたしたちはもたらす。
新しい世界を。
平和と安寧を。肯定される欲望を。あるいは、大いなる交わりを。


愛の、新世界を。
この揺れる大地の上に。



そう言って彼らはたちあがり、白昼の雑踏の中にきえていく。
(AS♯2)





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