作用と持続7

どうでもいいが、少し風邪を引いていたようだ・・・寒暖の差によるのだろう。いまはなぜか、やたらと空腹になる。どうでもいいけど。


時事問題について、色々な意見が出ているが、いまだに数値と単位の文脈が分からないので、個人的には意見はない。あえていえば、中心が不可視の構図はまだそのままで、だから何も変わっていないように思える。


むしろ、個人的には前回かいたような、これらをネタにした責任論や指弾の方が、いまは気になる。あるいは責任転嫁、なすりつけあい。それはもう始まっているのかもしれないが、いずれにしてもそうしたことで解決があるのかどうか、わからない。その方が気になる。
別の言い方をすれば、どんなに支持率がかわっても、支持/不支持の選択に「レンリツ」という選択肢は含まれていない。でも支持率は算出される。そしてゲームが始まり、つづいていく。ような気がする。それが答えなのだろうか、よくわからない。
ただし、たしかなのは、現実はゲームではない。あるいはもっと言えば、ここには2周目も3周目も存在しない。一度きりのプロセスを、限りあるカードで乗り切っていくしかない。どうなるのだろうか。


けれどこれについては、一般ピープルは口出しができない、セージ家さんの仕事だ。正しい答えも分からないが、それだけでなく、ただ見守るしかない。



少し脱線。
こうしたことがあると、本当にこれまで考えてこなかったようなことまで考える。何か、新しいリアリティと言うのだろうか、そうした問題。


たとえば、晩年にゲンパツのそばで過ごしていたと聞くデレク・ジャーマンについて。いくつもの短編で、ホーシャノーに満ちたスイバク実験場をさまよう人々を描いたバラードについて。
正直、これまであまりその危機感がわかっていなかった。あえていえばデカダンのようにさえ思っていたが、今は、そこにある種のリアリティを感じる。あるいは、あらためて感じ直す。
もちろん状況が違うからすべてが同じとは思わないけれど、すでに同じ問題を生きていた作家や、その作品について。



それでいうと、もう一つ脱線。
これを書くと誰かを批判したり否定したりするようなので、そうではなくて、あくまで個人的な感想であるということを念押しした上で、だが。
どうも個人的に、現在の時事問題をさかいとして、2周目3周目というような形での可能/並行世界について、リアリティを失いつつあるような気がする。もちろん、僕自身はほとんどゲームもアニメも見ないしやらないので、それほどハマっていたわけではないけど、SFなどでも同じアイデアはあったから面白さは分かったつもりでいた。

けれど、なんとなくだが、もうそれにリアリティを感じなくなってきた気がする。ちょっとうまく説明できないが。
あるいは、もう一歩ふみこめば、たとえば確率や偶然と言ったとき、それは世界じゃなくて、もう個人の体内に埋め込まれたような形のリアリティがある気がする。あまり具体的には書かないけれど、ある種の確率をもうすでに生きてしまっている状況と言うべきか。あるいはそうした状況を身近に感じるというべきか。そしてそのなかで、2周目はありえないというような。
けれどだからといって、それはゲーム的な作品を否定するものではない。むしろ、ひょっとしたら(たとえば)『「ありえた私a」と「ありえた私b」の対話』というような作品は、また別種のリアリティをもってくるかもしれない。
ちょっと矛盾してるな・・・よくわからない。なんとなくそういうことをふと考えた。


もちろん、だからといって、こうしたことをテーマにした作品が良いとか、そういうことを言いたいわけでは全くない。ただ分かるのは、これまでまったく考えたことのない問題について考えてしまうということ。
それがどういう問題なのかも、まだわかっていないけれど。



もう一つだけ脱線する。
これまで全く考えたこともなかったけれど、ゲンパツで驚いたのは、「暴走」とか「制御不能」ということについてのイメージが、それまで持っていたものと全く違うことだった。

これまでは、なんとなくだけど、とりあえず最初にドーンといって、あとはパラパラと散っていく、というような爆発にちかいものを抱いていた。
が、この2か月をみていると、どうもそうじゃなくて、本当に暴走するとは、『そもそも「何がどうなっているのか分からない」という状況が延々続く』ということだと分かってきて、それに本当に驚いた。あるいは、定義はまちがっているかもしれないけれど、個人的な把握としては、これが世界的事故ということなのかもしれないとも思った。つまり、本当に制御不可能になった事故だと。それがレベルいくつとかの、上限を突破したと言うことなのではないかと(これが間違った見方であるのは承知しているけど、あくまで把握の仕方について)。


といっても、それについて何かを言ったり書いたりすることはできない。
ただ表現の話に戻すと、そういえば「アキラ」はこうしたテーマを扱っていたのかもしれないとか思う。テツオじゃなくて、アキラ自体について。

ただ問題は・・・個人的にマンガは手放してしまって、手元にないのだった。あと、いまいち設定がわからないから、ストーリーの最後とか、正直まったくピンと来ない、というか意味がわからない。バカにしているのではなくて、単純によくわからない。
じゃあどうするかと言われても、さしあたりどうすることもできないので、とりあえず放置。



少し前からつづけている、「ののしること/のろうこと」について。
前に、小説(というか文章)と音楽をあげてみた。今度は、じゃあ映画はどうかと考えてみる。
とりあえず、すぐに2つあがった。それについて。


ひとつは、これは作品ではなく作家だが、ゴ×ールだ。ついにこの名前を出してしまうが、ゴダー×である。
この作家についてはもう沢山の議論があるからいいけど、個人的にはどの作品も、ただずっと何かをののしりつづけているように見える。あの変な叩き付けるような作品は、なんかそういうことを勝手にやっているような気もする。
実際、ストーリーもそういうのが多いような気がしなくもない。勝手にし×がれとか、もう延々と「くそだな」「ちくしょー」としか言っていないし、ストーリー全体がそういうことしか言っていない気もする。そのあとの作品になると、方法論だけが突っ走っていくような気もするが、案外ストーリーはろくでなしがろくでもないことをし続けているだけの話・・・かもしれない。まあ、なんとなくだが。


もうひとつは、もうタイトルがそうだが「エリ・エリ・レマなんとか」だろうか。考えてみたらガスマスクとか終わらない終末感とか、ぴったりすぎる気がする。
とはいえ、実はこれもヘアスタが出ている。・・・結論が変わらない。
他に何かあったか。ちょっとわからない。



どうでもいいけど、本当に、これまで考えたこともないことを考える。正しい答えがあるのかどうなのかもよくわからないけれど。



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