作用と持続7.2

どうでもいいが、なんか暑い。おまけにまだ空腹感がつづく・・・風邪のなおり気味のあたりは、いつもこんな風だが。


誰が読んでいるのか知らないが、さいきん思うこと。
これまで2か月半ほど、沢山の文章をつくってきた。それが良いのか悪いのかは分からない。
それよりも、最近は、あらためて他の人の文章を読んでみたくなる。別に直接的に時事問題に触れているものでなくていい。ただ、いま、こういう状況で、他の人は何を語るのか、どういう文章を作るのか、そういうことが少し気になりはじめる。というか読みたい。


もちろん、雑誌とかには沢山文章があるけれど、たぶん、まだその多くは、どちらかというと事態に直面したばかりの混乱がそのまま文章になったもののような気がする。
そうじゃなくて、ある程度の事態を把握し、状況が分かってきて、これまでやってきたことも続けたりしながら、そうしたなかで、何を考えているのか。そういう文章。
あるいは、今までは混乱した中で事態に頬かむりしていた人も、そろそろ(ある種の)日常的な問題として色んな事態があることに気付いているはずだと思う。
そういうなかで、何を考えているのか。賛成や反対とかではなくて、なんというか、考える方向の選択肢がふえてほしいような気がする。


言い換えると、「何かをすべき/すべきでない」というようなかんじの問題ではなくて、もうちょっと具体的に「何を/どのように」話したり考えたりできるのか。そういう問題について。そろそろ、色んな人がそういうことを考えはじめているのではないか。
そういうものを、そんなに気張ることなく、読みたい気分。




どうでもいいけど、世界同時多発というようなアイデアを知る。
とりあえずの感想としては、お!というかんじ。


・・・ひとつだけ、これは書いて良いのかどうか分からないし、揚げ足取りみたいに受け止められると困るのだけど、素朴な疑問として、前からおもうのだが。
ひとつ、イベントが8月15日にある理由が、実はちょっとよくわからない。終戦?平和?・・・重なっている?個人的には、ゲンパツの問題と、終戦の問題は、ほとんど関係のない問題系に入っているのだけれど、どうなのだろう?自分の関心が正しいものという確信はないけれど。
ただしこれはイチャモンじゃないので、たとえばどっちかというと前後3日間のフェスとかだと、特に問題がない気がするというか。「たまたま夏休みで企画があって、たまたま終戦とかぶりましたが、まあいいか」みたいな感じになりそうな気もする・・・海外だって、15日の深夜はニホン時間の16日になったりするわけだし、とか。・・・いや、正しいかどうか分からないけど。あんまり確信がない。


うーん、どうでもいいけど、なぜこれほど、自分がある種の「政治」を問題から切り離そうとするのか、その根拠が自分でもよくわからない。というか、そもそも何を切り離そうとしているのか・・・ニホン的な何か?あるいは、ある種の(センゴ的な?)意味付けか?なにか、そういうあらかじめ存在する文脈を組み換えないと問題がみえないような気がしてしまうだが、どうなっているか。
これは何故なのか、世代的なものなのだろうか。自分でもよくわからん。


と、とりあえず書いた。まあでも、スルー前提でおねがいしまーす。



前回かいた、ののしる/のろうことについて。
適当な思いつきだが、ゴ×ールの映画がその中に入ると言うのは、とりあえずだけれど、なんとなくそうかもしれないとあらためて思う。つまり、頭の先からシッポの先まで、ぎっしり悪罵がつまっている。映画の一本一本が、それぞれ世界に対する悪態のような映画。そう捉えても、案外そんなに変ではないような気もする。


その手がかりの一つは、前も書いたようにストーリーだ。その多くが、ろくでもない男が始終ブツブツと悪態をつきながらヒドいことをして、ひどい状況に巻き込まれて、「やってられねえ」みたいなことを言って終わる。そんな話ばかりの気がする。勝手にし×がれ、気×いピエロ、・・・「決別」にいたっては、ちょっと条件があれこれ違うけど、神がろくでなしだ。
じゃあ「映画史」はどうなのかと言われれば、それはもちろん、ろくでなしは「映画」それ自体とも受け取れる。時代に間に合わず、すべきことをせず、それでも存在し、そして忘れ去られたろくでなしたち。そんなたくさんの映画についての物語/歴史。だからタイトルが複数形なのだ、というと格好つけすぎだろうか?


ただし、もしそのように問題を設定した場合、この作家の作品が変なのは、物語と方法論が、ほぼ完全に切り離されていることだろう。つまり、普通の映画が、物語を効果的にたちあげるために様々な方法をもちいるのにたいして、物語と方法を別々に進めているような気がする。だから、その作品は「実験的」ともみなせるし、あるいは反対に、その方法論に「根拠がない」とも言われるのではないか。
実際、物語とは関係なく、方法論だけをすすめていけば、そのあり方に「根拠」などないだろう。ただ、この瞬間にそれをやりたいから、それをやるだけ。普通だったら、このストーリーのその場面にふさわしい演出を考えるのだろうけれど、そんな調和はかんがえない。だから、意味がわからずトンチンカンな作品になったりする、もしくは、なったとしても変ではない。


ただ、その方法は、つねに罵倒を組織すべく用いられているような気もする。つまり、撮影し、録音した素材を、なめらかな物語に服従させるのではなく、ひたすらな悪罵にかえるために、容赦なく切り刻み、変形させ、断片化させて、接合する。つねに一つのシークエンスが、悪態にかわるように。投げ付けるべき悪罵としてシーンをつくりなおす。そうやってから、とりあえずつなげ直していく。
逆に言えば、だからどんどん物語はわからなくなり、誰も見なくなり、わけがわからなくなっていく。


・・・まあ、ウソかもしれないけど。なんか適当に思いつき。
ただ、なんかそうやって見てみると、わざわざ崇拝すべき巨匠監督じゃなくて、案外すぐ隣にいるような気が、しなくもない。気難しくて、口うるさいが、つねに世界中をののしっているようなオヤジのような。
それはそれで、案外おもしろいような気もするのだが。まあ、よく知らないので、どうでもいいけど。


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