作用と持続8

どうでもいいが、とりあえずメモ。

うーん、よく分からないがちょうど一週間前にかいたメモで「これから責任論や指弾が・・・」としてみたら、なんかそんな感じになって来ている。正直、全然うれしくない。そんな見通し、楽しくない。

ちなみに、だからといって個人的には、一気にズバッとクリアに一致団結してほしいわけでもないし、そういうことを言い出す新党みたいのに出てきて欲しいわけでもない。特に後者は、かなり危険だろう。
そういうなかで、レンリツというのはありうる選択肢ではないかと思っていたが、状況はまったく不明だ。


とりあえずくりかえし。現実はゲームじゃない。2周目は存在しない。それは、しかし、あたりまえのことではないか?



同じくメモ。
世界同時多発について、アイデアが進んでいるらしい。騒ぎたいわけでないので短く。

色々と思うことはあるが、そのアイデアをみたとき、最初に思ったのは、「もし許されるなら、その日、トーキョーで、このブログを何か更新しようかな」ということだった。
ちなみに別にブログでなくてもいい。ライブに行ったり、いつもと同じことをしたり、ただウロウロしたり、寝たり。そんなことをしながら、考えたことをとりあえず書いてみる。ただそれだけ。現地に行くかどうかは、わからない。でも、とりあえず考える、そして書く。

それは、たぶん具体的な力にはなれないけれど。うまくはいえないが、それでいいなら、そうしてみようかなと。あまり集団で組むのがうまくないので、こっそり一人で。ああ、誰かと話してみるというのもアリかもしれない。そういうのを、アチコチ移動しながらやってみたり。
そんなイメージ。だからといって、どうなるものかはよく分からないが。


もうひとつ、なんというか、これはどうでもいい妄想だけど、こういうときにナムジュンパイクとかいたら、何か派手で下らなくて、でも心に残ることをやるんだろうなあとか思う。つまりメディアアーティストか。

うーむ、正直いうと、これまでメディアアートについて積極的に考えたことなんてあまりなかったが、本当に考えたこともないことについて考える。
以上、メモ。



ちょっと前から続けている「ののしる/のろうこと」について。追記。
実は、今のタイトル(作用と持続)にしてから、このテーマは、個人的なものになっている。つまり、誰かにお勧めするものではないし、誰もが論じるものでもない、そういう前提で、ただ個人的な興味として続けている作業だ。
だから、これについて書いていることが、正しいかどうかは分からないし、どこへ向かっているかも、正直わかっていない。まして最先端のテーマとはとてもおもえない。
ただやりたいからやっているだけ。その点では、いつもとおなじ。まずそれを注記。



そのうえで、もうすこしだけゴ×ールについて追記しておく。
これまで、その作家の作品を、ある意味で、世界にたいする悪態として捉えてみた。まあ、とりあえずその視点は維持しておこう。

そのうえで、ではどういうことに対する悪態なのかということをもう少し踏み込んでみる。と、その答えは簡単だ。もっとも目立つのは、おそらく戦争である。
それは一番最初の「コンクリート作戦」から始まっているとも言えるが、たとえば「小さな兵隊」から「フォーエバーモーツ×ルト」、さらに最近の作品まで、一貫して戦争の主題がある。そして、その物語では、たいてい主人公は戦争に反対し、しかし巻き込まれ、最終的には殺されてしまう。
その過酷なプロセスを、この作家は、撮影と録音と編集によって悪態にかえながら紡いでいく。そう見ることも、たぶん不可能ではないようにおもう。つまり一貫して、戦争にたいするののしり/のろいの主題があるのではないか。



それを踏まえた上で、けれどこの作家にはもうひとつ、特異な視線があるようにおもう。ののしる/のろうときに、少し変わった立ち位置を取っているらしいのだ。
それは、現場と語り手の距離感ではないだろうか。こことあそこ。ヒア&ゼア。××ナムから、遠く離れて。その現場に必ずしも身を置くのではなく、遠く離れて、それを考える。あるいは、それを考える自分自身を考える。
もちろん、それが必ずしも良い立ち位置かどうかは、わからない。その場に身を置くひとからすれば、なんとも卑怯な立場にみえるかもしれない。最前線には行かず、安全な場所にとどまっているだけなのは間違いないし、だから正確な情報を把握しているかどうかも定かではないのだから。遠くから、雑な情報だけで、適当に考えているようにみえるかもしれない。

ただ、おそらくこの作家は、それを十分に分かっているように思う。実際、とくに最近の作品では、やたらと前線に行かずに好き勝手している脇役が登場しており(たいてい男性の老人で、職業は映画監督)、なんとも無力な立ち位置にあることを示している。
あまり物語を主観的に読むのはよろしくないだろうが、とりあえずそうした脇役の存在から、「距離」の主題が今も維持されていることは読み取れるのではないか。


いや、そうではなかった。ここで言いたいのはそういう主題の維持についてではない。
そうではなくて、おそらくこの距離感こそが、「ののしり/のろう」という性格を呼び寄せているのではないかということだ。つまり、その場を動かなくとも、ある距離をつうじて、どこかで起きている惨事を自分のこととして考えることができる。どこか遠く離れた事柄について、考えることができる。だからこそ、それについてののしることができる。だからこそ悪態をつく。そのような、悪態の力を確保するための距離感。

あるいは、別の言い方をすれば、その距離によって、ある2つの地点で起きた出来事を、それぞれ別のものではなく、足すことができるかもしれない。別々の場所の問題を、ひとつにするのではなく、むしろ加算することができるかもしれない。撮影し、録音したものを、編集によって、モンタージュによって、組み合わせる。アソコとコチラを、くみあわせる。

つまり、たとえばワン・プラス・ワンは、そういう作品ではなかったか。一本の映画だが、そうではないかもしれないもの。
まあ、もちろんそれは無力かもしれないし、意味などないかもしれないが。



・・・というところ。だからどうしたといえば、よくわからない。まあ、そもそも映画はよく知らないし。




うーむ、でも本当に考えたことのないテーマについて考える。案外と色々なアイデアがあって、そのことにも驚く今日この頃。
はーひふーへほー♪


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