作用と持続 8.3

どうでもいいけど、さきほど珍しくコンサートの予約をした。6月10日。MOT。これまで、基本的にここに「○○には行く」と書いたら、実際に行っているので、つまりたぶん行く。できればその翌日の11日に別の場所であるらしいトーク関係の企画にも行こうかというところ。
だからといって、なにか分析とかをするために行くわけではない。ただ行くだけである。問題は、どちらかというと人見知り・・・・・・どうでもいいけど先月ピットインに行ったとき、気のせいかもしれないが多方向から視線を感じ、だからといってどうしようもないので、やみくもにタバコを吸ったりしたが、気のせいかもしれん。

よくわからないが、とりあえずそんなことを書いておく。




このところ「ののしる/のろうこと」について進めてみた。それで、だいぶ個人的には、おおまかな問題の輪郭が分かってくる。
ひとつだけ注記すると、重要なのは、どうやらその行為を持続するかしないかによって、意味合いが変わるような気がする。つまり、ののしるという行為を持続していくと、途中で意味が変わってしまい、どちらかというと「うらむ」とか「のろいつづける」という感じになってしまう。それはそれでいいのだが、ここでの設定は「具体的な対象があるわけではなく、天に唾するかんじ」というのが前提なので、この設定内では持続するかしないかは、重要なポイントになるかもしれない。
つまり、ここで続けてきた「ののしる/のろう」ということについて言えば、それは短く、対象を持たず、一度だけ、無方向に放たれる「何か」のようなものだ。それを一定時間以上つづけてしまうと、具体的な誰かを「うらむ」ことになってしまう。それでは台無しなのだ。



ちなみに、もうひとつ。以前に「これはあくまで個人的な問題」とした。それは、もちろん実際にそうであるわけだが、くわえてもう一つ、実はこの問題を進めていくと、必ずしも「よい」表現だけではないことに気付いたせいもある。「よい」というのは、安全か危険かという程度の意味であって、裏返せば「わるい」表現を突き詰めていくととても危険な内容を持ってくるということを意味する。
そして、「よい表現だけではない」ということは、つまり「わるい」表現すなわち危険な表現もありうるということが言いたい。いいかえれば、誰が読んでいるかは知らないが、もし気楽についてくる人がいたら、それは必ずしも安全でただしい方向かどうか、個人的には保証しかねるのだ。


どういうことか。簡単にだけ触れておくと、ここで念頭においているのはア×トーだ。アントナ×・アル×ー。元シュルレアリスト。ぺヨートルの儀式。ヘリオガバルス器官なき身体。そういうテーマを取り上げ、掘り進んでいった人物。
その表現を「ののしる/のろう」というテーマに入れて良いのかどうかはわからない。というか、そもそもこの人のテキストについて、個人的にはあまり意味が分からない。というよりひょっとして、その意味を把握しているのは世界中に一人もいないような気もする。


だからここでの理解は、あくまで誰かの見解をもとにした孫引きのようなものだが、そのうえでいえば、どうもア×トーのテキストは恐るべき罵倒や悪罵のように受け止められる。ただ、その対象が、たんに天に唾するというに留まらず、自分自身の身体や、あるいは社会の倫理秩序全体に向けられているらしいのだ。それを真に受けると、かなり大変なことになりそうである。
たとえばザックリした理解だが、そもそもその罵倒は、まずもって自分自身の細胞に向けられているらしい。とくに病があるのは、そもそも自分の体に身体があるからで、それは細胞によって構成されている。だから、自分を再生産する有機的な組織がうとわしい、のろわしい。だからこそ臓器や器官ものろわしい。
あるいは、社会の倫理的な秩序にも罵倒が向けられる。そこにも一つのシステムがあり、それはとくに人生の価値観を判断したり、審査したりする要素がある。たとえば天国か地獄か。ある人の生を、善悪によって判断する体系。神の裁き。それと決別する。そのような性格があるらしい。


で、それはそれでいいのだが、やはりそのあり方はかなり特異であるのみならず、かなり危険と言っても良いような気がする。もちろんきちんとテキストを理解しないまま、孫引き的に理解しているのだから間違っているかもしれない。が、もしそのような性格があるとすれば、この方向での「ののしり/のろい」は、かなり危険だ。
端的に言えば、自らを破壊する方向にむかうのだといってもいいだろう。身体にせよ、価値基準にせよ、自分自身がもっている構造を徹底的に破壊する。それは一歩間違えば、前者は自傷になり、後者はいわゆる狂気におちこむ。実際アルト×自身がそのような方向を辿っている節もあるらしいが、それはちょっとラディカルに過ぎる。
たとえばだが、実際「×のプラトー」という本を読むと、読み方によってはこれはほとんど全部がアル×ー論のようにも読める。ただ、そのなかで著者らは何度も、「この方向に進むのは良いが、できるだけ慎重に」「そうしないと自滅か裏返しの全体主義へ行く」という留保をくりかえしている。おそらく、だからそれだけ危険なテキストなのだろう。


念のためにいえば、だからといって、そのテキストを「ダメ」と言いたいのではない。ここでやっているのは、あくまである種の行為のあり方をサーベイしてみることにすぎない。そしてそのなかの一つの極点として、とりあえずポイントをチェックしているだけである。
ただそのうえで、おそらく現時点での関心として、この方向はあえていえば「あまりよろしくない」方向であるように思うことは付け加えておく。もし行くとしたら、かなり入念な準備と時間をかけた上で、すこしずつ進んでいく必要がある。ただ、現時点ではそれに十分な時間も、また必要な教養もない。そのような意味を含め、とりあえずもっとも極端な方向として、チェックだけするに留めておきたい。




ところで、誰が読んでいるのか知らないが、なんとなく続けてきたこの作業は、ここまでで一つの輪郭をえたようにかんじる。そこには具体的な人物達もあげたし、さまざまな表現や方法があることもわかってきた。また、そこに危険といっていいだろう例があることもわかってきた。
だからどういうことではないが、この作業は、とりあえずここで一段落しておこう。結論はださない。問題を留保したまま、またすこし別の問題を見つけたり、あるいは放置していた問題などに戻ってみたい。だからといって意味はないが、まあ、とりあえずそんな気分。


どんな気分かは、よく知らないが。



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