作用と持続10.663

すでに昨日のことは昨日のことだが、お出かけしてみた。浅草。正確には、吾妻橋。ウシジマ神社である。
敷地が広いとか前回かいてしまったが、実際は公園であって、その中に敷地があった。神社とか久しぶり。ものすごい古いらしい。



で、そこで七夕にiso。感想は・・・何かがあった。何かクルものがあり。いつも即興演奏をみると、何となく方法論に言及して逃げを打ってしまいがちだが、実はたぶん何かもっとクルものがあった。なので、変なモードなのだが、なんかエラそうなので、書くのがためらわれる。


とはいえ、感想自体についてもなかなか説明自体がむずかしい。たとえばisoのイメージとずいぶん違っていた。大友さんはギターを弾いていたし、一楽さんは弦を引く弓をつかって音響を出す。エレクトロニクスのかんじは全くない。
また、音もかなり大きい時があり、いわゆるオンキョー的ソッキョーとは、なんというかだいぶ違う。境内ぜんぶを使って、3人がかなりバラけた距離で、境内をトライアングルが囲むかんじ。
なので、ぼんやり見ているとライブのアンサンブルズに近いかんじもするのだが、一つだけ違うのは、奏者が動かないこと。たぶん大友さんはギターを抱えて動けるはずなのだが動かず。でもなんというか、そこにかなりクルものがあり。説明困難。



ただ、録音していなかったらしいので、書かないと完全に忘れてしまうのでメモ。非常に説明困難だが、もちろん環境音はかなりあった。とくに、途中から風の音と木の音がした。ちなみに個人的には、最初は境内の端にいて、途中から中に入った。
けれど、そういう環境音が良いと言うことを言いたいわけではない。・・・正確に分かっていないが、たとえば大きくなった風の音にしても、直接に反応していたのは大友さんだけだったのではないかと思う。だから、環境音があって、反応して、というのにキタわけではなかった。


説明困難だが、ではキタかんじのものとして、例をあげてみると。たまにCDなどで「別々にバラバラに録音して、あとでそのままあわせる」という手法があると思うのだが、ああいうのを聴いたときにクルものに近い。なんか巧く言えないのだが、そういうものを聴くと、バラバラなのに何故か構造物みたいのができているようにかんじることがある。これは皆がそうなのだろうか。曲の展開のような構造ではなく。バラバラのものが接合されてできているような構造物のようなもの。
なにか、そういうものがあって、かなり反応。こういうものについて、すでに記述や分析はあるのだろうか。どのように表現して良いのか、ちょっとわからん。勉強不足。



少しだけ逆算してみると、ひょっとしてそうした演奏のかたちは、上に書いた距離にあるのかもしれない。その後のトークでもそういうことを言っていたけど、奏者にかなりの距離がある。ひょっとすると、互いが互いを視認できないくらいの距離があり(間に樹がはさまっているとか)、実際にも10メートル以上は離れていた。
しかも風がゴウゴウ鳴っていたり、たくさんの客がウロウロしていたり、脇をチャリンコが通り過ぎたり、それぞれの奏者の周辺だけでも色んなことが起きている。つまり、奏者それぞれが、かなり違う環境におかれたような感じのようであった。そのようなくらいの距離。


なので、たとえば想像だが、すぐ隣同士にいて、互いの意志を確認しながら演奏を練り上げていったり、アイコンタクトをしたり、もしくは少なくとも他の奏者が「何を見て、聴いて、考えているのか」を考えながら演奏する、ということができない状況だったのではないだろうか。むしろ、そうできない状況に自分たちを積極的においていたようにさえ見えた。
だから、結果としてリアルタイムの即興演奏なのに、別々に録音してそのままくっつけたもののような、ある種の分離/接合感みたいのがあったのではないか。それを、3者のまん中にはいって聴いていると、上に書いたような独特の構造物みたいのが出現してくる。そしてそれがキた。ように思った。


ちなみにつけくわえると、音の大小は別にして、環境音やら人の声やらで、どんどん音の数が少なくなっていった印象。isoには個人的には微細な音響で、緻密な展開をつくるもののような印象があったのだが、それとはだいぶちがった。あと、大友さんのギターの演奏が、よくわからないがここ最近でけっこう変化しているような気がする。フィードバックだけでなく、もうすこしで旋律になりそうな欠片みたいのもあり、つまびきもあり、・・・前からこうだったっけ?
あともう一つ、トリオであるというのはスゴイんだなとか思った。二人だと、こうならないんじゃないか。もちろんトリオといっても、どれが基礎とか序列がないのだが、項が3つあると、いろんなことが起きる気がした。これもうまくいえず。



で、つまりは、ほとんど異質な3者が、なぜかわからないが音響空間で出会って一つになっていたようだ。そしてその一つの構造物が、環境音で穴ぼこだらけになりながら、夜闇が深まっていくなか、ゆらゆらと変化していたようだった。

そんな七夕の印象。




ちなみに、どうでもいい感想は、例によっていくらでもある。
たとえば境内から、お賽銭をいれる社みたいなところへ行く階段があって、なんか神社的にはそこに尻を置くのはマズいのかなと思いつつ。
とはいえ演奏がはじまった最初、その階段に座ってみようとしたら、即座に「そこはさすがに座っちゃダメです」と神主さんに怒られたり。とか。


じゃあ、次にそのすぐとなりにあった、なんというのか手を洗ったり口をすすいだりするアレの場所で仁王立ちになってみたら。
いきなりごく普通の参拝客の方がこられて、その人たちにギロリとメンチ切られて脇に逃げたり。とか。


意外に神社って、コワい。




あとちなみに、上にかいた「バラバラに録音して、あわせると何かの構造ができる」というようなことは、はるか4か月前に言及したブラウンの演奏集のメルツバウの演奏についても思っていた。もう忘れられたかもしれないが、こうやってずっと書いている文章の、そのほぼ出発点である。そこからポロックとかへ話が飛んでいった。
けれど、あらためて思い出すだけで、あの演奏は変である。そもそも盛り上がらない、ハ―シュじゃない。しかもプリペアドギターを演奏しているのだ。それ以外にも、なんか色々と不整合なかんじのものが合体して、何かができている。これは、一体なんなんだろう。


ちなみに、このCDには、まったく同じ楽譜を別の奏者が演奏したものもあって、これが全く違うのでそれも驚きである。・・・そっちの方は、もっときちんとしたピアノ演奏で、いわゆる現代音楽ぽいというか、いかにもというか。とにかくまるで違うのである。
で、どちらを取るかというと、わざわざ4か月前に書いた方に決まっている。取るかどうかと言うより、突出して選択するものにちかい。


うーむ、どうなのだろう、果たしてこの演奏に注目する自分の感覚が正しいのかどうか、よく分からん。ここでできているものは何か、と言う問いもよくわからない。
ただ分かるのは、どうもこのような構造物は、何か複数性とか、自由とか、運動とか、そういうものを持っているようにかんじられる。あるいは、そうしたものによってできているように感じられる。それは上に書いたように、演奏によっては「いかにも・・・ぽい」と言う形で、簡単に削除/排除できる。たぶん、オーセンティックな目線で言えば、統一性がなさすぎるのかもしれない。あまりに野蛮なのかもしれない。
けれどそれはブラウンの楽譜に最初からあったのではないかと、4か月前に考えた。そしてそのブラウンの作品は、ポロックにもあったのではないかと考えた。複数性とか自由とか運動とか。それを生み出していく即興とか。
そういうことを考えた。


それについては、4か月後も、あまり変わっていない。



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