左酔う綴じ蔵区10.664123

なんともいえないが、まもなく日付け的にも4か月になる。だからどうしたというわけではないが、個人的には3か月より、4か月の方が大きな境目のような感覚がある。これは個人差もあるだろうし、どこにいるかにもよるだろう。とりあえずトーキョーにいる感覚として、4か月と言う時間経過の大きさを感じる。



もうちょっと踏み込んでメモしておく。
では、その4か月目の大きな変化について、それは何かと言うと、とりあえずは忘れることに関係する。忘れる。事件を。4か月前を、忘れる。そうしたような人々の振る舞いを見かける。そうした事態だ。


いや、正確には、問いは2つある。ひとつは、文字どおりの忘れること。忘却だ。4か月前のこと、その後の一か月のこと。それらを忘れる。それらが生み出した問題に今も関わらねばならない人たちのことを忘れる。まるで日常のように、事件がなかったかのように、あったことさえ忘れてしまったかのように、時間を過ごす。
4か月とは、忘れるに十分な時間なのかもしれない。


けれど、もう一つの問いは、そうしたことではない。忘れると言うことだけではない。そうではなくて、そもそも一体、何をおぼえていたのかという問いだ。
4か月経って、忘れてはならないと言う人もいるだろう。あのことを記憶しておかねばならないと言う人もいるだろう。あのことに、あらためて立ち向かわねばならないと言う人もいるかもしれない。
しかしその前に、一体なにをおぼえていたというのか。忘れるほど十分に、正確に、何かを覚えていたのだろうか。忘れてしまう記憶は、そもそもどこについての、誰についての、どのような、何の記憶だったのか。
その記憶は、保存されるほど十分に何かを記憶していたのか。



いいかえればこれは、記憶と忘却の関係についてだ。いったい、自分は何を覚えていたのだろうか。それがわからないのに、何を忘れたのかという問いが成立するのだろうか。
ひょっとしたら、自分は何も記憶していなかった、忘れるに十分なほど何かを覚えていなかった。そんな気がするのだ。
覚えていたのは、そもそもほんのわずかな、何かの輪郭だけだったのではないか。忘れる以前に、その権利を行使するほどの何かを覚えていたのだろうか。


あるいは、さらにいいかえれば、忘却と記憶といっても、それは単に「忘却」か「記憶」かという問題ではない。そうではなくて、もっと一人一人の具体的なところからでしか、それについては出発できないのではないか。
つまり、ある個人が何を見て、何を聴き、何を思い、何を覚えたのか。それはたぶん限界があるし、限界ばかりなのかもしれないが、その具体的な記憶からでしか、忘れることも覚えていることも、始まらないのではないか。



そんなことを考えた。まあ、それについての答えなど分からぬままに、この問い自体を忘れてしまうのかもしれないが。4か月とは、そうしたいくつもの忘却の間にある、奇妙な時間なのかもしれないとか。そんなことを考える。


だからといって、どうしたわけでもないのだが。
そんな4か月。





例によってド×ューンがみれないので、twitiqにて#do×uneをみる。一分ごとに更新・・・ぬぬ。
ゆっくりと色んな人の輪がひろがっているように感じる。どうでもいいけど、とにかくすごいスピード感だ。これは本当に驚く。


とはいえ、そろそろ来月15日にどうしようか考えてみる時期である・・・とくに何も考えていない。どうしようか・・・わからん。


何も答えがないのだが、そんなかんじで。タイトルもこんなかんじだが、まあよきかな。ほなほな。


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