作用と持続11

誰が読んでいるのか知らないが、暑いせいで更新が滞ってしまった・・・半分ウソだが、半分は本当。ようやく暑さに慣れてきたというべきか。
残りの半分は、どうでもいいといえばどうでもいいが、4か月ちかくも連続で文章を作っていると、どうにも前に書いたこととの連続性ができてくる。蓄積といえばそうだが、悪く言えばアシカセだ。抱え込んだ主題や手法に縛られてしまう。
なので、一度あらためて切り替え。ここで作っている文章には、とくに連続したメッセージはない。ただその場の思いつきがメインである。なんかちょっとタイトルの数字で遊んだりしていたのだが、それも一度やめることにした。
というわけで、きりかえ。


実際、前に書いたことに引きずられていると、なかなか言いっぱなしの適当なことが書きにくくなったりする。たとえば、以前の主題において、宙づりをあげたが、そのときボンヤリ頭に思い付いたのは、実はキクチさんの音楽、とくにキャッチ22(の前半部分)だった。
あの曲について、本人が書いた文章は半分ウソかもしれないが、まあ半分しんじるとして。そこで言われているのは、つまりは「いつ何が起きるか分からない状況(への不安)」であり、それに対するカウンターとして、いささかハッキョーした幾何学的なものをブチ当てるということだったと理解できる。
それは、いいかえれば宙づりの、いつ、何が起きて、あるいはこれからもいつ何が発生するか分からないという状況に対して、その状況についての表現であると同時に、それ自体が一つのくぐり抜け方であるような表現だったのではないか。だから、以前にパードンキクチヘアスタを見たかったのは、そうした理由もあったのだった。
とはいえ、なんかとにかく本人が文章を書く人だと、なかなかそれについて書きにくいような感じもあったが、それはもう止めよう。・・・できればキャッチ22に代わる新曲も作ってほしいとか思う。


ちなみに、なんかアイデアとかないとやってくれないのかもしれないのだが、よくわからないが適当なアイデアなら存在する。
適当に書いておくと、それは「ヨーヨーダイン日本支社」というものである。そういうコンセプト。その讃歌みたいなやつ。たぶん存在したら、かなりヤバいだろう。
知っている人は知っているが、念のため書けば、これはピン×ョンの複数の小説にでてくる謎の巨大企業である。おもうのだが、いまのニホンは、その背後にヨーヨーダインがいるとしか思えぬ事態になっていると思う。たぶん、3月くらいに日本支社ができたんじゃないかな。

という次第。責任はまったくとらないが(何度も書いているが目立ちたいわけではないので)、よくわからないけど誰かこのアイデアで作曲してくれないかなと思う。



ひさしぶりなので、さらに久しぶりの問題にも書いてみる。それはゲンパツだ。
というか、もうゲンパツそのものについては多くの人が論じているので問題はない。個人的には、かなり以前から「独占状態がなくなればいいんじゃないか」というようなことを書いていて、そのような方向に実質的には向かっているようにおもうので、とくに言うことはない。つけくわえれば、セージの領域では業界に引っ張られて動揺しているが、経済などではそれと関係なく、新エネルギーの方向に動いているようにおもう。
だから、これについてすべてをセージの目線からだけ論じるのは奇妙なかんじがする。でも、別にしたりたいわけじゃないので、どうでもいい。


そういうことが問題なのではない。あらためていくつか出て来た問題について、すこしわからない点があるので、何が分からないかを整理してみたい。
それは、「アンゼン神話」についてである。ゲンパツについてのアンゼン神話が崩壊した、と。よく言われる。これについて色々な人が言っている。が、個人的には、なんとなく2つの問題が入り交じっているように思われていて、そのへんがよくわからない。どういうことか。


まずひとつは、なんというか政策的と言うか、実利的と言うか、そういうアプローチである。つまり、事故が起きる前に、なぜその予防をしなかったのか。とくにアメリカなどでの事故を知っていて、アメリカでは十分な措置が取られていたのに、なぜそれをしなかったのか。
それは、アンゼンだけを繰り返す神話にあるのだ。事故になる危険を知りながら、それをせずに、アンゼンばかりを叫んでいた、そのことが問題である。それがアンゼン神話の問題だ、そうしたアプローチ。
これは、だから裏を返せば、これからの問題として、十分な予防措置を講ずることが解決策になるだろう。たとえ事故がおきても、それにたいする十全な供えがあれば(ハツデン施設とか)、事故にはならない。ただアンゼンだけを強調するのではなく、そうしたテクロノジカルで実利的な対策を、政策的に採用しなければならない。というかんじである。これが一つ。


これに対してもう一つ、テクノロジーそのものの神話の崩壊もあるようにおもう。つまり、事故が起きるとか予防とか、そういうことも大事だけれども、その以前に、そもそも使っているテクノロジー自体がまったくアンゼンではない。暴走した場合、もうどうしようもなく怪物的な機能を見せて、制御できなくなる。使っている技術それ自体がアンゼンではないのだ。こうしたアプローチ。
この場合、テクロジカルな事前策をとればいいというのではなく、もはや使用しているテクノロジー自体が問題である。それを使っている限り、いつか何か、管理できない事態が起こる。実際、事故から4か月たっても、まだそれを十分に管理しているとは言いがたいような状況が続いているのではないか。世界史レベルの事故とは、それを示しているのではないか。
この観点では、くりかえしだが、打開策はテクノロジーの使用自体を問題にすることになるだろう。これがふたつめ。



そして、よくわからないのだが、いわゆる「アンゼン神話の崩壊」というとき、どうもこの二つの観点=問題が、ごちゃまぜになっているような気がする。あるいは、論者によっては二つを使い分けて意見をごまかしたりしているようにも思ったりする。たしかに、どちらも日本語でいえば「アンゼン性」の問題だが、しかし、どうにも射程から対応策から何から何まで、かなり別物なのではないだろうか。
もう少し正確にくりかえしてみると、このふたつは、単に観点=問題だけではない。そこから出てくる対応策の方向性にまで関わってくる。一方では技術的な解決、他方では、より長期的で根源的な解決。解決の方向や性格が、まったく違うのではないのか。


だからといって、どうしたわけではない。ただ、なんとなくだが、この二つをごっちゃに語ってはいけないような気がするだけである。この二つをごちゃまぜにしたら、一体何が問題なのか、それが見えなくなる。あるいは、それについて論じている人の意見も、やはり見えなくなる。だとすれば、これからについての意見も、やはり見えなくなる。


この整理が正しいのかどうか、よくわからない。だが、ただただ「アンゼン性が崩壊した」というだけでは見えてこない、あるいはそう言うことで見えなくなってしまうことがあるとすれば、それ自体が問題であるような気がする。
せいぜい言えるのは、これくらいか。




そんなことを考えた。
ゲンパツからすこし離れて。




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