作用と持続13

今は夜の九時だ。今日も池袋にいる。いまはひとりで、安全な部屋にいる。
大きな窓がふたつあるが、聞こえるのは雨の音だけで、人の気配はない。街のあちこちは節電のために暗くなっている。
その後、とくにコメントもメールも来ていない。何か根本的にコミュニケーション能力に障害があるのか、書いている内容がおかしいのか、誰も読んでいないかのどれかだろうと推測するが、そんなことには、個人的には興味はない。


雨が窓を打ち付けている。
台風が近い。



すこしだけ間が空いたが、17日の日曜日、隅田川音楽カイホー区を見にいく。ザックリいえば、ウンチビルと本社ビルのまわり(屋外)に、多種多様な演奏グループが集まったり動いたりする。予想とだいぶちがったが、意外に興味深し。
とくに驚いたのはサンバ(で良いのか)のひとたち。というかその音のデカさ。大きな太鼓を肩から下げて、ちょっとしたホールにいるのかというくらいの音を屋外で発する。しかもそれが連発してリズムが刻まれ、しかもそのまま、なんと歩いて移動していく。
おもわずトコトコと後をつけてしまった。サンバカーニバルとか見たことはあるが、こんなだったか?とくに動くのが面白い。というか、いまのトーキョーでは、この大音量で移動はほぼ不可能かもしれず、室内でやったとしてもその魅力は半減以下ではないか。
また踊りにしても、打ち抜くようなリズムに自然とわずかに腰にクる。足とか膝とかでリズムをとっても、出ている音楽に太刀打ちできないのだ。体幹で云々といわずとも、実際にみればわかるんだなと分かった。これだけでも、開催した価値あるんじゃないかとかおもうが、我ながらエラそうで問題である。


そのあと、色んな人たちが集合して、川沿いでオートモさんが指揮。ヤカタ船の屋根にのぼって、5色のウチワでカード的な指揮をする。・・・マンガみたいな光景。とおもっていたら、脇からもう一艘が出現してダブルオーケストラに。もっとマンガか。
ついでにエラそうにしてみると、演奏もけっこう良かった・・・と思う。ダブルオーケストラは最初のアサクサのをみただけで(それについてはここで書いていない)その後のはわからないのだが、最初のを見たとき、良い演奏を探り出していった方が良いような気がしたのだった。つまりなんでもありじゃなくて、どういうのがありうるのかというのを多少、審美的にみてみるというか。
で、今度の演奏は、なんかリズミカルなメロディーをあらかじめ一つ設定しておいて(黄色いやつ)、それとは別にドンとかバンとかリズムをつくり、そこにメロディーを入れたりしてみていた気がする。で、これがダブルになるとけっこう複雑で、盛り上がるし良い感じ。
よくわからないが、演奏として、一つのモデル的に良かったかも。って、エラそうだ・・・
あと屋外で大勢でやると、お祭り感があって面白い。
そんな感想。





ちなみに。
関係あるのかないのか分からないが、最近、関係性って大事だなとおもう。人と人、人とモノ、人と情報、いろいろな関係性があるが、そういうものについて。何において大事かというと、文化についてだ。
あるいは、文化というものの一部は、そうした関係性にあるのではないか。そんな考え。


たいへん適当なかんじで恐縮だが、少しだけ書いてみる。
ここでいう関係性は、色々なものをふくんだものだ。もちろん、誰かと誰かが知り合うということもそうだし、多くの人が出会う、集まると言うこともそうである。誰かを何かを通じて知るということもそうだし、誰かが作った何かを知るということもそうだ。そうした関係性。文化はそれによって支えられているような気がする。
いや、必ずしも知り合う必要はないかもしれない。何かを、こっそり見る、ということもそうかもしれない。そこにふらりと行ってみるということもそうかもしれない。ただ、現場に立ち会うということもそうかもしれない。直接的な出会いではないかもしれないが、そこでは何かの関係が生まれている。そんな気がする。
いや、それだけではないだろう。何かを読む、ということもそこに入れてみる。つまり、ある著者と、読者のあいだにできる関係性というのもあるだろう。あるいは、それを語り直す、ということも、あらためて対象の位置付けを再考するという意味で、関係性かもしれない。あるいは何かを想起するということもあるだろう。記憶するということもあるだろう。
つまりは、かならずしもアウトプットする必要はない。けれど、記憶といったようなものにおいて、一個人の中に、何かと何かの間に関係ができる。そうしたいわば一人の個人の中における関係性みたいなものも、あるかもしれない。
そしてつまり文化というのは、こうした関係性によって支えられているのではないか。



もちろん、これが雑駁なものであることは承知している。アカデミックにはもっと精緻な概念があるだろうし、分類もあるだろう。また、こうした関係性だけでは、いわゆる創造性や想像力については把握することはできないことも分かっている。そんなことはすでに知っている。
一方で、もしこうした関係性に注目したとき、とりあえず了承されるのは、こうした関係性が、生きたものであるということではないだろうか。関係性は、実は生きている。集団にせよ、人間関係にせよ、記憶にせよ、つねに更新され、劣化し、交代し、代謝のたびにつくりかえられている。文化は、そのようなある意味で生きた関係性によって担われているのではないか。

いくつか例をあげれば、たとえば、いわゆる祭事においても、それを担う担い手が交代する毎に、音楽にせよ踊りにせよ、ほんのわずかずつ変化している。何百年も経てば、ほとんど別物になってしまうらしいことは、たまに聞く。
もしくは、そうした変化を拒否するならば、イセのシキネン遷宮のように25年置きに作り直すシステムを作れば良いかもしれないが、もしそのシステムが動いているならば、裏返しの意味において、やはりそれは生きた関係性によって支えられているといえるのではないか。




こんなことをなぜ書くのかといえば、それはいうまでもなくゲンパツの、というよりフkushiマにおける文化の問題に関連している。いや、関連しているかどうかは分からない。ただ、そこでセイジでも経済でもなく、文化が問題であるとするならば。あるいは、誰もがそこについてセイジかケイザイについてばかり言及し、文化について語らないとするならば。
個人的な問いとして、では、文化とは何かという問題をかんがえてみる。文化とは何だろうかと。そうした問いを、とりあえず投げてみる。


いいかえれば、こうなる。今の事態を戦争というのに個人的には賛成できない。しかし、百歩ゆずって、それを戦争としてみよう。そのとき、ではその戦争における戦線は、いったいどこにあるのか。それは一つなのか。二つなのか、たくさんあるのか。
それはかつてあったのか、いまあるのか、これから切り開くのか。それは目の前にあるのか、彼方にあるのか、手近につくることができるのか。
つまりは、文化とは何か。もしそれが前線であるとするなら、その問いを発してみる必要があるのではないか。





もちろんその答えは、ここで出せるわけではない。この文章自体も、ただのメモに過ぎない。
もう長いので、二点だけつけくわえる。ひとつは、これはある意味で、場所は関係がないことだと思っている。つまり、たとえば今の地域から人がすべて立ち退いても、そこから住民がいなくなっても、この問いは、たぶん残る。なぜならそこの社会を破壊した施設が残っており、その事実は残るのだから、おそらく問いも残るだろう。
あるいは、そもそもこの問い自体が、場所には関係がないといってもいい。文化とは何か、という問いは、たぶんもう何百年も何千年もまえから続いていた。続いていたし、今も続いている。だから、そもそも場所を選ぶことはない。
さらに別の見方をすれば、これは文化に関わり、文化を享受できる場所なら、どこでも発しうるだろう。人によっては、文化は産業だというかもしれない。文化は実用性がないというかもしれない。そいうことは、あちこちで聞く。そうかもしれない。沢山の意見や考えがあるだろう。
けれどいずれにしても、この問い自体は、場所に関係がない。ただ、それをあらためて発してみるだけである。



もう一つは、この問いは時間に関わるかもしれない。つまり、文化やその関係性は、おそらく「過去」や「現在」に強く関わるだろう。かつてあったものを引き継ぎ、現在にそれを出現させたり、それを今の若い世代に教えたりもする。
しかし、はたしてこれは、過去と現在だけなのだろうか。前にも一度書いたが、これはどこかでわずかながらにも、未来にかかわってはいないのだろうか。
とはいえ、念のためにいえば、文化が未来に果たす役割とかいうものについて、真正面から意見をいうつもりはない。それをいえば、たぶんおかしな予言者か、変な権力とかになってしまうだろう。そうなりたいならそれでもいいが、個人的には興味はない。
けれど、これも前の繰り返しだが、その問いを発することくらいはしてもいいだろう。未来について、未来を想像したり生み出したりすることについて、文化の中になにかが埋蔵されているかもしれない。文化とは、そのようなものではなかったかと、問いを発することくらいは良いのではないか。いつのまにか、誰もがその問いを発さなくなったようにみえるけれど、一体誰にその問いを禁じられたのか。まるで未来が誰かの手に譲り渡されたようでさえある。
それにたいして、せめて問いを出すことくらいは、許してはくれないか。未来を、考えることくらいはできないのか。


この問いは、ただそれだけである。




長く書いてみたが、とくに答えはない。というか、答えを出したとしても、それを書くつもりは、いまのところ、あまりない。また念のために強調すれば、この問いは個人的なものにとどまり、誰かに共有してほしいとも思っていない。
では、なぜそれを書いたのかといえば、それも一つの関係性かもしれないと思ったのかもしれないが、それについては自分でも全く分からない始末だ。



だからといって、それがどうしたわけでもないが。




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